古い戸籍を確認すると明治時代の鈴木家も宮城県石巻市水沼にいたことがわかった。現在も親族が暮らす場所を匡美さんの叔母・内海佳代子さんが案内してくれた。祀られていたのは菅原道真。百人一首にも登場し、和歌の名手としても知られている。小学校の教頭で水沼の歴史を調べている中澤健一さんによると鈴木家の先祖について書かれた資料があるという。匡美さんと6代前で繋がる鈴木左門は神道や皇学を学び、書道にも長けていた人物。皇学とは古事記や日本書紀などの歴史書や万葉集などの和歌を読み解く学問である。鈴木家の文学への関心は匡美さんの祖母・みさほにも受け継がれる。みさほは19歳の時、三浦長雄の後妻として結婚。先妻は姉の光代だったが24歳で亡くなっていた。長雄が働いていたのは旧満州の鉄道事業を担う南満州鉄道株式会社。みさほは水沼の旧満州を行き来しながら3人の子育てをした。昭和20年8月、ソ連軍が侵攻すると長雄がいた町も戦場になった。長雄は終戦前日に亡くなってしまった。水沼の地でどうやって子を養っていくかとなり、みさほは地元で出会った男性と一緒に住み酪農を始めた。牛乳の出荷は早朝4時で深夜2時から準備を始めた。みさほには子どもを養うこと以外にも必死で働く理由があった。旧満州にいる間に親族が散財し、鈴木家の土地を手放していた。気力も体力もギリギリの中、束の間の楽しみだったのが短歌であった。みさほの次女・佳代子さんがみさほの作品をまとめた冊子を持っていた。みさほの長女は匡美さんの母・博子で24歳の時に佐藤悟と結婚し、海からほど近い宮城県石巻市南浜町で暮らし始める。結婚から3年後、匡美さんが誕生した。明るい博子が気落ちする出来事が起きたのは昭和55年43歳の時で母のみさほが61歳で亡くなったのである。 博子はその時の思いを日記に残していた。実は博子は24歳で亡くなったみさほの実の姉・光代の子ども。我が子として分け隔て育ててくれたみさほのことを博子は心から慕っていた。博子がみさほを詠んだ歌が掲載された歌集があり、博子にとって故郷水沼は母・みさほから沢山の愛情を注がれた場所のため何度も短歌に詠んでいた。その後は匡美さんの長男である颯丸が誕生し博子は孫との日々を綴るようになった。さらに颯丸が小学6年生になる頃には短歌を教え、2人で楽しむようになった。そして博子が73歳の時、あの日が訪れてしまう。
2011年3月11日、博子たちの住む石巻市内では高さ8m以上の津波を観測した。震災から3日後、匡美さんは高校生だった長男・颯丸と一緒に線路の上を歩いて実家に向かう。土砂が流れ込み、木材が散乱する実家の1階で見つけたのが母・博子の亡骸であった。その2週間後、遺体安置室で父・悟を発見。最愛の両親との突然の別れであった。後日、匡美さんが実家の2階で見つけたのが博子の短歌のノート。生前の母の最後の歌は受験を控えた孫・颯丸を詠んだものであった。匡美さんの長男・颯丸さんを訪ねた。震災から1年後の2012年、東京の大学に進学した。震災後の心の辛さを誰にも言えず、抱え込んでいた時期があったという。颯丸さんはその心のうちを祖母の博子から教えられた短歌に詠むようになった。今も休日や仕事の休憩中など気がつくと短歌を考え、スマホに打ち込んでいる自分がいる。颯丸さんが会場に来ており、隣には妻がいた。
2011年3月11日、博子たちの住む石巻市内では高さ8m以上の津波を観測した。震災から3日後、匡美さんは高校生だった長男・颯丸と一緒に線路の上を歩いて実家に向かう。土砂が流れ込み、木材が散乱する実家の1階で見つけたのが母・博子の亡骸であった。その2週間後、遺体安置室で父・悟を発見。最愛の両親との突然の別れであった。後日、匡美さんが実家の2階で見つけたのが博子の短歌のノート。生前の母の最後の歌は受験を控えた孫・颯丸を詠んだものであった。匡美さんの長男・颯丸さんを訪ねた。震災から1年後の2012年、東京の大学に進学した。震災後の心の辛さを誰にも言えず、抱え込んでいた時期があったという。颯丸さんはその心のうちを祖母の博子から教えられた短歌に詠むようになった。今も休日や仕事の休憩中など気がつくと短歌を考え、スマホに打ち込んでいる自分がいる。颯丸さんが会場に来ており、隣には妻がいた。
