- 出演者
- 寺門亜衣子 今田耕司 富澤たけし(サンドウィッチマン) 伊達みきお(サンドウィッチマン)
オープニング映像が流れた。
今回はサンドウィッチマンをゲストに迎え、皆さんのルーツを調査する特別編。伊達みきおはかつてファミリーヒストリーに出演。宮城県で先祖の謎や気になるエピソードを募集すると300を超える投稿をお寄せいただいた。どんな家族の物語があるのか徹底取材。
調査の依頼者である荒井美樹さんが登場。調査依頼は「先祖は代々伊達家の家臣!?奉行もいたというが本当か」について。荒井家の最も古い戸籍を遡ると幸之進という先祖の名前が記されていた。荒井幸之進の手がかりを探して仙台市博物館へ行き調査に協力していただいた。幸之進は藩主の身の回りの世話をするちご小性という役割。調べを進めると、幸之進から2代前の家長の名前を見つけた。江戸中期の先祖・加右衛門 盛従は数多くの奉行職を経験。果たして名奉行と呼ばれるほどの活躍をしたのか。東北大学の蝦名さんと仙台藩に関する別の資料を読み解く。数々の奉行職を務めた盛従。その中でもある役割で特に実績をあげていた。町奉行としてどんな裁きをしたのかも記されていた。ある日盛従のもとに人々を混乱させた怪しい僧が連れてこられた。罪状を問うと話せないふりをして筆談で答えた。僧が書いたのは日本では主に仏教で使われた梵字。文章を理解できず審議が進まないだろうと考えた。ところが盛従は徹也で梵字を学び文章を解読。翌日の裁きで矛盾点をつき、驚いた僧は罪を認めた。生真面目で努力家だった盛従だがさらにその人となりがわかる資料が残されていた。町奉行の辞職を願い出た文章の写しである。盛従は弱い立場の人から罪を犯した理由を聞き出せず、本当に正しい審議ができているのか悩んでいた。そうした姿勢を評価していたのが7代目藩主の伊達重村。盛従の辞表を受け取らず、強く遺留していた。基金対策や医療政策を押し進めた大岡越前と同じように盛従は庶民の苦しみに目を向けていた。盛従の活躍からおよそ150年後、荒井家の運命が激変する出来事が起きる。戊辰戦争が勃発し旧幕府軍に味方した伊達家は敗れ、家臣たちも離散した。最も古い戸籍によると荒井家は明治時代に仙台を出て現在の大崎市三本木に移っていた。
依頼者・美樹さんのいとこである荒井進を訪ねた。進さんは幼い頃、祖母のいなよから明治時代の先祖について聞いたという。名家のプライドがあった荒井家は時代の急激な変化についていけず、財産を減らしていく。明治38年に東北で起きた大飢饉について志田郡の状況が記録された資料では皇室から一時金が配られたことが記されていた。この援助を貰った人たちの中に、依頼者美樹さんの曽祖父・盛典の名があった。そんな荒井家に昭和14年に誕生したのが美樹さんの父・春夫である。生活が苦しい中、中学卒業後に東京に集団就職。その後仙台のガラス店で働くと店を任せられるようになり、窓ガラスの設置や交換に奔走した。かつて仕事を頼んでいた斎藤さん夫妻によると春夫はとことん客に寄り添う人だったという。そんな春夫に一目惚れしたのが隣の洋装店で働いていた薄場貞子で依頼者・美樹さんの母である。
実は今回の調査で母方・薄場家についても意外な事実がわかった。仙台藩の家臣の記録に「薄場庄三郎」の名前を発見。戸籍などから薄場家の先祖であることがわかった。庄三郎は御台所人組という料理番の1人でいくら入りの鮭の焼き物やたらの汁物など仙台藩はグルメで知られていた。荒井春夫と薄場貞子は伊達家を支えた先祖を持つカップルであった。2人はまもなく結婚を意識するが、年の差が16歳あったこともあり周囲は大反対した。春夫は意を決して薄場家を訪問しその時立ち会っていたのが依頼者のおば・洋子さんであった。春夫と対面した貞子の父・敬は後遺症で歩くのが不自由だったが、春夫は町で見かけて声をかけて気遣っていた。荒井家の名奉行が持っていた困っている人へのまなざしは時代を超えて受け継がれ、薄場家との縁を結んだ。盛従は他にも様々なエピソードが残っており、安永疑獄という仙台藩の重臣たちが出世や昇進を巡り内紛となる一大事だったがこの時も盛従の取り調べをして解決に貢献したという。伊達みきおのルーツが仙台藩と伊達家と深く繋がっているのは以前ファミリーヒストリーでわかったが、少しVTRで振り返っていく。
2015年に放送した伊達みきおのファミリーヒストリー。まずは本人に話を聞くところから取材が始まった。芸人を志した時、父親から「伊達の名は汚すな」と言葉をかけられたという。伊達みきおのルーツは独眼竜で知られる伊達政宗の時代から200年前の室町時代に遡る。この時代にも伊達政宗という当主がいた。その弟の宗行は分家して大條を名乗っていた。この人物こそ伊達みきおの先祖である。分家した宗行が移り住む旧伊達郡大條村は現在の福島県伊達市である。枝の字は変わったものの今も残る大枝の地名。宗行の姓はここから取っていた。大條家はおよそ200年、この地を治めたという。時は変わって幕末、伊達みきおの4代前高祖父の大條道徳は仙台藩の家老職にあたる奉行を務めていた。戊辰戦争で旧幕府側についた仙台藩は降伏し、厳しい罰が課せられることは確実だった。そんな状況で新政府側の木戸孝允らとの会談に臨んだ1人が大條道徳であった。領地を大きく減らされる中、少しでも仙台藩の実役を残せないかと難解な交渉にあたった。その後、伊達家当主から大條から伊達の姓に戻すよう命じられたのである。
荒井美樹さんは「涙が出てきますね」「知らない部分がいっぱいあった」などと話した。
次の調査の依頼者は高橋匡美さん。調査依頼は「震災で突然両親を失った 結婚した息子にルーツを伝えたい」とのこと。
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依頼者の高橋匡美さんが知りたいのは母のルーツで気になる遺品があるという。震災で亡くなった母の詞には短歌があり、生前の母が詠んだ短歌には実家がある石巻市の水沼という地名が沢山出てきた。母はどうして故郷を何度も短歌に詠んだのか。匡美さんの母・博子のルーツは鈴木家。
古い戸籍を確認すると明治時代の鈴木家も宮城県石巻市水沼にいたことがわかった。現在も親族が暮らす場所を匡美さんの叔母・内海佳代子さんが案内してくれた。祀られていたのは菅原道真。百人一首にも登場し、和歌の名手としても知られている。小学校の教頭で水沼の歴史を調べている中澤健一さんによると鈴木家の先祖について書かれた資料があるという。匡美さんと6代前で繋がる鈴木左門は神道や皇学を学び、書道にも長けていた人物。皇学とは古事記や日本書紀などの歴史書や万葉集などの和歌を読み解く学問である。鈴木家の文学への関心は匡美さんの祖母・みさほにも受け継がれる。みさほは19歳の時、三浦長雄の後妻として結婚。先妻は姉の光代だったが24歳で亡くなっていた。長雄が働いていたのは旧満州の鉄道事業を担う南満州鉄道株式会社。みさほは水沼の旧満州を行き来しながら3人の子育てをした。昭和20年8月、ソ連軍が侵攻すると長雄がいた町も戦場になった。長雄は終戦前日に亡くなってしまった。水沼の地でどうやって子を養っていくかとなり、みさほは地元で出会った男性と一緒に住み酪農を始めた。牛乳の出荷は早朝4時で深夜2時から準備を始めた。みさほには子どもを養うこと以外にも必死で働く理由があった。旧満州にいる間に親族が散財し、鈴木家の土地を手放していた。気力も体力もギリギリの中、束の間の楽しみだったのが短歌であった。みさほの次女・佳代子さんがみさほの作品をまとめた冊子を持っていた。みさほの長女は匡美さんの母・博子で24歳の時に佐藤悟と結婚し、海からほど近い宮城県石巻市南浜町で暮らし始める。結婚から3年後、匡美さんが誕生した。明るい博子が気落ちする出来事が起きたのは昭和55年43歳の時で母のみさほが61歳で亡くなったのである。 博子はその時の思いを日記に残していた。実は博子は24歳で亡くなったみさほの実の姉・光代の子ども。我が子として分け隔て育ててくれたみさほのことを博子は心から慕っていた。博子がみさほを詠んだ歌が掲載された歌集があり、博子にとって故郷水沼は母・みさほから沢山の愛情を注がれた場所のため何度も短歌に詠んでいた。その後は匡美さんの長男である颯丸が誕生し博子は孫との日々を綴るようになった。さらに颯丸が小学6年生になる頃には短歌を教え、2人で楽しむようになった。そして博子が73歳の時、あの日が訪れてしまう。
2011年3月11日、博子たちの住む石巻市内では高さ8m以上の津波を観測した。震災から3日後、匡美さんは高校生だった長男・颯丸と一緒に線路の上を歩いて実家に向かう。土砂が流れ込み、木材が散乱する実家の1階で見つけたのが母・博子の亡骸であった。その2週間後、遺体安置室で父・悟を発見。最愛の両親との突然の別れであった。後日、匡美さんが実家の2階で見つけたのが博子の短歌のノート。生前の母の最後の歌は受験を控えた孫・颯丸を詠んだものであった。匡美さんの長男・颯丸さんを訪ねた。震災から1年後の2012年、東京の大学に進学した。震災後の心の辛さを誰にも言えず、抱え込んでいた時期があったという。颯丸さんはその心のうちを祖母の博子から教えられた短歌に詠むようになった。今も休日や仕事の休憩中など気がつくと短歌を考え、スマホに打ち込んでいる自分がいる。颯丸さんが会場に来ており、隣には妻がいた。
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収録後は匡美さんと颯丸さんに見つかった資料を見せながらさらに細かい情報を伝えた。
エンディング映像が流れた。
