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「三谷幸喜」 のテレビ露出情報

昭和20年代後半、上方落語は一層窮地に陥っていた。落語家は若手を含めても10人余り。米朝、松鶴はそれぞれのやり方で復興に乗り出す。米朝が取り組んだのは失われたネタを守ることだった。既に一線を退いていた噺家を訪ねてはネタを集めた。米朝が復活させたネタの数は40以上に及ぶ。松鶴は落語をする場所探しに奔走した。当時の寄席は漫才ばかりだった。ようやく見つけた場所はキャバレーだったという。工場の屋上から拡声器を使って落語をしたこともあったという。そうした中、上方落語を盛り上げようと始まったNHK大阪主催の落語会。ラジオの公開放送で落語を定期的に取り上げることにした。しかし客は集まらなかった。高度経済成長が訪れ、大阪の街に活気が蘇ってきた中、米朝ら若手が幹事となり、上方落語協会が設立される。米朝はこの頃からメディアに積極的に出るように。やがて2人の努力がみのり、少しずつ落語会に人が集まるようになった。デビュー前の笑福亭仁鶴さんからの手紙も届いた。大阪が沸き返った万博の2年後、上方落語協会は念願の寄席を手に入れる。その場所はキリスト教の教会だった。昭和47年、教会の名前を取り「島之内寄席」と名付けられた寄席が開かれた。初日、客は大入り満員。下足番を務めたのは当時上方落語協会会長を務めていた松鶴だった。この日、松鶴は米朝と並んで舞台に上がった。島之内寄席ができて14年後の昭和61年、松鶴は病の床にあった。米朝は何度も見舞いに訪れ、その最後の見舞いの時松鶴は「今後上方落語はお前に頼むで」と言ったという。
米朝の十八番、「地獄八景亡者戯」。フグを食べた若旦那と芸者衆が地獄の観光を始める話。登場人物は30人以上、70分を超える大作。余りの難易度の高さに、長年全編通して演じる落語家はいなかったが、米朝が蘇らせたのだという。昭和42年、米朝はこのネタを引っ提げて東京へ。米朝はこの古典落語が現代でも受けるように工夫をしていた。この年、公害対策基本法が制定された。米朝は汚染された三途の川など、日本中が関心のある問題を古典に取り込んだのだった。米朝に地獄八景亡者戯の稽古をつけてもらった桂文珍さんは古典落語に現代の要素を取り入れるためには深い知識が欠かせないと考えている。「米朝師匠はその話を背景とか掘り起こし方とか、豊かな知識のもとに語ってらっしゃる」などと語った。迎えた東京での独演会の当日、決戦の舞台は紀伊國屋ホール。客席には立川談志の姿もあった。満員の客席は70分、爆笑の渦に包まれた。この独演会のプロデューサーで演芸評論家の矢野誠一さんはその日、舞台袖から見た地獄八景の衝撃を克明に覚えているという。地獄八景の大成功は、上方落語が全国区になった瞬間だった。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年8月1日放送 23:00 - 23:30 TBS
A-Studio+(宮澤エマ)
祖父は第78代内閣総理大臣・宮澤喜一の宮澤エマ。デビュー直後はバラエティ番組に多数出演。連続テレビ小説「おちょやん」、三谷作品など話題作に続々出演。ジャンル問わず役の幅は限りない実力派。今夜は三谷幸喜、家族など彼女を語る上で欠かせない方々に徹底取材。

2025年7月13日放送 10:00 - 11:00 テレビ朝日
テレメンタリーPlus生ききる〜ある俳優夫婦のダイアローグ〜
斎藤歩さん・西田薫さん夫婦は三尺玉の花火を見るために釧路大漁どんぱく花火大会へ向かった。その後、斎藤さんは検査で肺や肝臓にガンが転移していると伝えた。薫さんは知り合いから教えてもらった民間療法を進めたが、斎藤さんは拒否した。斎藤さんは舞台「民衆の敵」に取り掛かった。脚本・演出・音楽を担当し、自らも舞台に立つという。芝居の最後の台詞は原作の言葉から斎藤さんが書[…続きを読む]

2025年7月12日放送 6:00 - 8:30 フジテレビ
めざましどようびOH!めざめエンタサタデー
NEXT「“鬼滅の刃”キャストが心配なこと」「三谷幸喜 タイムスリップしたら」

2025年7月11日放送 10:25 - 13:55 TBS
ひるおび(エンディング)
パルコグランバザール 三谷文楽とコラボ 三谷幸喜「伝統芸能ってかっこいい」

2025年7月10日放送 4:30 - 5:20 TBS
THE TIME’(気になるニュース)
2012年から三谷幸喜が作・演出を手がける古典エンタテインメント「三谷文楽」とパルコグランバザールがコラボ。そのPRイベントに三谷さんた登場。三谷文楽をはじめたキッカケについて、吉田羊さんに文楽のスタッフを紹介してもらったことだと話した。

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