2025年8月3日放送 1:25 - 2:38 NHK総合

桂米朝 なにわ落語青春噺(ばなし)
JOBK100年

出演者
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(オープニング)
オープニング

テレビや寄席で大人気の若手落語家の桂二葉。令和3年度NHK新人落語大賞受賞。デビュー前繰り返し聞いたという落語家は桂米朝。100年前、JOBKと同じ年に生まれた上方落語のレジェンド。古典落語を掘り起こし復活させその功績と品格ある話芸で人間国宝になった。米朝さんが落語家になったのは戦後、上方落語がどん底にあった時代。落語をこの世に残すため若き落語家たちの苦闘が始まる。そんな青春の日々をドラマで再現。演じるのは米朝さんゆかりの現役落語家たち。

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桂米朝 なにわ落語青春噺
桂米朝 なにわ落語青春噺 桂米團治

落語家の桂米團治さんは、米朝さんの長男で19歳のとき弟子入り。1つのネタで米朝さんが稽古をつけるのは3回だけ。録音は一切禁止。後で聞き返せると稽古で油断してしまうから。米朝さんの口癖は「落語は催眠術である」。お客を落語の世界に引き入れるため、口調や身振りの細かいことまで厳しく指導。米朝一門は、直弟子、孫弟子、玄孫弟子までいれると80人以上。上方落語家の約3割を占めている。

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かんさい特集東の旅・発端桂ざこば[2代目]桂南光[3代目]桂枝雀[2代目]桂米朝[3代目]
桂米朝 なにわ落語青春噺 桂吉弥

米朝一門の一人の桂吉弥は孫弟子だが、内弟子に住み込みさせてもらったのが1995年3月からの3年間。とにかくお酒が好きな米朝師匠が「もう飲まんでええさかい、ビールのグラスは置いて話に付き合え。わしがどういうふうに酔うていくかよう観察して今後の落語に活かしなさい」などと言ったという。このからはドラマも交えて米朝師匠の人生を振り返る。米朝師匠役は桂吉弥が務める。舞台は戦後すぐの昭和22年。上方落語どん底の時代。米朝師匠はよく「落語家になるのは墜落しかかった飛行機に乗るのも同然」などと言っていたという。米朝が4代目桂米團治の門を叩くところから話は始まる。

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桂米團治[4代目]桂米朝[3代目]
桂米朝 なにわ落語青春噺

桂米朝と桂米團治の再現VTRが流れた。

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桂米團治[4代目]桂米朝[3代目]
第一章 落語家米朝 誕生

昭和の始め、ラジオから流れる落語の時間がなにより楽しみだった中川清(後の桂米朝)。大正14年に始まったラジオ放送。ラジオは家族の娯楽を売り文句に浪曲からクラシックまで、ラジオ体操もこの頃始まった。多くの番組のなかで皆が一番楽しみにしていたのもは、昭和6年に大阪放送局が聴取者にアンケートをとったところ、ニュース、野球を抑えての1位は大阪落語だった。人気の中心にいた落語家が、のちに歌にもなる伝説の大阪芸人初代桂春團治。派手な身振りでお客を爆笑させ、話術も巧みで当時の音源が残っている。ラジオで落語の虜になった清少年。その後、父の持っていた落語全集を読みふけり、そこに登場する人間の面白さに心を動かされていく。一方、太平洋戦争が勃発し若者は次々に戦場へと送られていった。昭和20年2月、19歳になった米朝は招集され姫路の連帯に配属。しかしすぐに腎臓炎のため陸軍病院に入院。その病院生活で書いていた日記が今も保管されている。相次ぐ空襲で大阪も姫路も焼け野原となり多くの人が亡くなった。死と隣り合わせの日々の中で、米朝さんは落語への思いを抑えきれなくなる。その時の気持ちが日記に記されていた。病院の中で初めて落語をし、この日以降聞き覚えた落語をどんどん披露していった。 演目の数は36に及んだ。そして終戦後の昭和22年、21歳の米朝さんは4代目桂米團治に入門。しかし終戦後に大阪の人々が夢中になったのは漫才。長年米朝さんと親交のあった作家・筒井康隆さんは、当時漫才が好まれた空気を肌で感じていたという。落語家の中には漫才師に転向するものや廃業するものが続出。米團治さんも貧乏ぐらしにあえいでいた。そんな中、追い打ちをかけるように上方落語を支えてきた大御所たちが相次いでこの世を去った。米朝さんが心酔していた米團治も入門してからわずか4年後に亡くなった。当時の新聞は「大阪落語は一巻の終わり」「これで大阪落語も滅びた」と言い切った。上方落語を残そうと東奔西走したのが桂米朝と六代目笑福亭松鶴。2人の芸は対称的で水と油だった。六代目笑福亭松鶴は、5代目松鶴の息子で生粋のなにわっ子。弟子たちには人気者がいっぱい。上方落語伝統の一門。松鶴さんの落語はまとわりつくような昔ながらの大阪弁。一方米朝さんはスマートさと研究者のような深い教養が信条。落語の中でも難易度の高い「軒づけ」。5つの浄瑠璃を語り分ける必要がある。能狂言から芸者衆の小唄まで、伝統芸能なら何でもござれの米朝さん。好きが講じて歌舞伎の舞台を務めたこともある。

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桂米朝 なにわ落語青春噺

桂米朝と松鶴の再現VTRが流れた。

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桂米朝[3代目]笑福亭松鶴[6代目]
桂米朝 なにわ落語青春噺 笑福亭鶴光

六代目 笑福亭松鶴の弟子の笑福亭鶴光さん。米朝さんと松鶴さんの微妙な関係を間近で見てきた。友だちじゃなく腹立つライバルだという。松鶴師匠にとっては「んんんっ」って常にしていたという。だがその2人がいなかったら完全に上方落語は消滅していたという。

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桂米朝[3代目]笑福亭松鶴[6代目]
第二章 米朝 松鶴 落語復興にかけた青春

昭和20年代後半、上方落語は一層窮地に陥っていた。落語家は若手を含めても10人余り。米朝、松鶴はそれぞれのやり方で復興に乗り出す。米朝が取り組んだのは失われたネタを守ることだった。既に一線を退いていた噺家を訪ねてはネタを集めた。米朝が復活させたネタの数は40以上に及ぶ。松鶴は落語をする場所探しに奔走した。当時の寄席は漫才ばかりだった。ようやく見つけた場所はキャバレーだったという。工場の屋上から拡声器を使って落語をしたこともあったという。そうした中、上方落語を盛り上げようと始まったNHK大阪主催の落語会。ラジオの公開放送で落語を定期的に取り上げることにした。しかし客は集まらなかった。高度経済成長が訪れ、大阪の街に活気が蘇ってきた中、米朝ら若手が幹事となり、上方落語協会が設立される。米朝はこの頃からメディアに積極的に出るように。やがて2人の努力がみのり、少しずつ落語会に人が集まるようになった。デビュー前の笑福亭仁鶴さんからの手紙も届いた。大阪が沸き返った万博の2年後、上方落語協会は念願の寄席を手に入れる。その場所はキリスト教の教会だった。昭和47年、教会の名前を取り「島之内寄席」と名付けられた寄席が開かれた。初日、客は大入り満員。下足番を務めたのは当時上方落語協会会長を務めていた松鶴だった。この日、松鶴は米朝と並んで舞台に上がった。島之内寄席ができて14年後の昭和61年、松鶴は病の床にあった。米朝は何度も見舞いに訪れ、その最後の見舞いの時松鶴は「今後上方落語はお前に頼むで」と言ったという。

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米朝の十八番、「地獄八景亡者戯」。フグを食べた若旦那と芸者衆が地獄の観光を始める話。登場人物は30人以上、70分を超える大作。余りの難易度の高さに、長年全編通して演じる落語家はいなかったが、米朝が蘇らせたのだという。昭和42年、米朝はこのネタを引っ提げて東京へ。米朝はこの古典落語が現代でも受けるように工夫をしていた。この年、公害対策基本法が制定された。米朝は汚染された三途の川など、日本中が関心のある問題を古典に取り込んだのだった。米朝に地獄八景亡者戯の稽古をつけてもらった桂文珍さんは古典落語に現代の要素を取り入れるためには深い知識が欠かせないと考えている。「米朝師匠はその話を背景とか掘り起こし方とか、豊かな知識のもとに語ってらっしゃる」などと語った。迎えた東京での独演会の当日、決戦の舞台は紀伊國屋ホール。客席には立川談志の姿もあった。満員の客席は70分、爆笑の渦に包まれた。この独演会のプロデューサーで演芸評論家の矢野誠一さんはその日、舞台袖から見た地獄八景の衝撃を克明に覚えているという。地獄八景の大成功は、上方落語が全国区になった瞬間だった。

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私と落語

NON STYLEの石田明は10年以上前から落語に挑戦。その経験を漫才にも活かしたいと考えている。石田明は「「人」を見せるのが漫才の一番の最終目標。だからそこにヒントがあるなって思ってる」などと話した。石田明が感じる米朝落語のすごみとは、最初に見た「地獄八景」は落語事態無知のまま見て、映画見たような満足感があったという。米朝師匠というのは離脱させるチャンスをくれないというか、常にこの世界にある物語をつなぎとめるみたいなモノをしっかり押さえているという。

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第三章 上方落語 若きスターたち

桂米朝が復興した上方落語。若いスターも次々生まれた。番組宛のはがきへの軽妙な応えで頭角を表した松鶴さんの弟子・笑福亭仁鶴さん。喜怒哀楽を顕にした豊かな表情と、記憶に残る決め台詞がテレビで爆発的人気を呼んだ。のちにNHK大阪とも深い関わりを持つようになる。身近なトラブルを法律で解決する「バラエティー生活笑百科」の司会を31年間務めた。若者の間で圧倒的な人気を誇ったのが桂三枝。キャッチーなギャグを連発。現代的で親しみやすい語り口がラジオの深夜放送で大ブレイク。桂三枝さんが打ち込んだのは創作落語。ネタの数は300を超えた。代表作は、坂本龍馬や近藤勇が一緒にゴルフをするという「ゴルフ夜明け前」。昭和40年代~50年代、関西で若手落語家たちはアイドルに。寄席やテレビ局には出待ちの若者が行列を作るほど。上方落語復興に尽くしたベテランから売り出し中の若手まで大阪中の落語家が全員集合した番組。空前の上方落語ブームに米朝さんは「うまいこといけばよろしいけど、いかなんだらクズみたいなもん」などと話した。この頃米朝一門は、20人を超える大所帯となっていた。その中から生まれた最初のスターが桂枝雀さん。枝雀さんの落語への没頭ぶりは郡を抜いていた。ネタをやり切るまでひたすら歩くのが枝雀流の稽古。米朝さん家では集中するあまり、ガラスを全部割ってしまったという。米朝さんのもとで青春を過ごした皆さん、数十年経った今も師匠の思い出話に花が咲く。

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NHK大阪放送局なにわの落語家歳末噺ゴルフ夜明け前バラエティー生活笑百科ヒットでヒット バチョンと行こう!!代書屋吹田市文化会館 メイシアター坂本龍馬宿替え林家小染[4代目]枝雀のケッタイナ小咄桂三枝桂千朝桂南光[3代目]桂吉弥桂文珍桂朝丸桂枝雀[2代目]桂米左桂米朝[3代目]歌え!MBSヤングタウン笑福亭仁鶴[3代目]笑福亭松鶴[6代目]笑福亭鶴光[2代目]笑福亭鶴瓶第28回NHK紅白歌合戦近藤勇
第四章 がんばってまっせ米朝さん

米朝が残した言葉「大きなことは望まない。泣いたり笑ったりしながら一日一日が無事にすぎてなんとか子や孫が育ってそれでいい。落語とはそういう芸です」。第22回全日本学生落語選手権「策伝大賞」に出場した学生の中にはプロを目指す者もいる。京都・祇園の安井金比羅宮で2か月に1度、米朝一門の若手落語会が開かれている。今から59年前、米朝が始めた。客が帰ったあとはいつも反省会が開かれる。一門にとって今もここは特別な場所。現在この会を主催している桂米二さん。米朝と同じ席に陣取り若手の公演を見守る。米朝を尊敬する桂二葉さんは「すごい寛大な世界。それが落語のすごくいいところやなって思いますね」などと話した。どん底から米朝たちが青春をかけて復興した上方落語。かつて席が埋まらなかったNHK上方落語の会は今1400席が満席になっている。専門の寄席、天満天神繁昌亭の舞台の上には米朝がしたためた「楽」の一文字が掲げられている。

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