志摩市民病院では江角悠太氏しか医師がいなくなり、三重大学付属病院の上司は戻ってくることを提案した。だが、江角氏は地域医療の崩壊に繋がってしまうと、病院に残ることを決意した。同氏は医師の父、医学研究の母を持ち、教育熱心な父からは全く褒められず、医者には悪い印象しか抱かなかった。母方の祖父も医師だったが、好きな道を進むよう促し、両親や祖母からは「世の中のために、人のために力を使いなさい」と言われた。
高校生になると江角氏はヤンキーとなり、警察のご厄介になることも度々だった。素行不良から退学処分も危ぶまれたが、担任が他の教師を説得し、処分は免れた。後日、担任からは「信頼を崩すのは一瞬。取り戻すのは一生」などと言われて目を覚まし、ユーモアと愛情で患者を幸せにした実在の医師の姿を描いた映画「パッチ・アダムス」に感嘆した。高校3年の4月から猛勉強し、三重大学医学部に入学した。パッチ・アダムスを超えたいと江角氏は世界平和の実現を掲げていたなか、東日本大震災が発生した。
被災地に入った江角氏は「原発30km圏内に300人住んでいることは知っている。行きたいなら行け」と言われ、救助活動を行った。江角氏は日本の片田舎で起きている少子高齢化、人口減少を解決できれば、国内外で応用できると考え、僻地医療を専門とする医師を志した。内科、整形外科、小児科などあらゆる患者を診る総合診療医となり、自ら希望して志摩の市民病院に派遣された。30人近い入院患者がいたなか、16年1月から4月までの3か月以内に常勤の医師3名を確保する必要に迫られた。
高校生になると江角氏はヤンキーとなり、警察のご厄介になることも度々だった。素行不良から退学処分も危ぶまれたが、担任が他の教師を説得し、処分は免れた。後日、担任からは「信頼を崩すのは一瞬。取り戻すのは一生」などと言われて目を覚まし、ユーモアと愛情で患者を幸せにした実在の医師の姿を描いた映画「パッチ・アダムス」に感嘆した。高校3年の4月から猛勉強し、三重大学医学部に入学した。パッチ・アダムスを超えたいと江角氏は世界平和の実現を掲げていたなか、東日本大震災が発生した。
被災地に入った江角氏は「原発30km圏内に300人住んでいることは知っている。行きたいなら行け」と言われ、救助活動を行った。江角氏は日本の片田舎で起きている少子高齢化、人口減少を解決できれば、国内外で応用できると考え、僻地医療を専門とする医師を志した。内科、整形外科、小児科などあらゆる患者を診る総合診療医となり、自ら希望して志摩の市民病院に派遣された。30人近い入院患者がいたなか、16年1月から4月までの3か月以内に常勤の医師3名を確保する必要に迫られた。
住所: 三重県津市江戸橋2-174