タモリらは北九州市誕生の秘密を探った。まずは小倉がどんな町なのか、小倉城から探ることに。城の西側を歩くと幾重にも掘を巡らせ守りを固めていた形跡があった。守りを強く意識した小倉城。実は城下町にも守りの工夫があった。碁盤の目のように造られた東側の城下町。地図ではまっすぐに描かれている東西の道だが、実際には少し曲がっていた。理由は見通しを悪くするため。これは小倉城を建てた細川忠興の碁盤の目も大切にしながら守りも固めたいとした葛藤の表れだと考えられている。小倉の常盤橋はかつて交通の要衝だった。九州の玄関口とされていた小倉は強固なまでに守りを固める必要があった。また、かつては筑前と豊前の国境があり、豊前の小倉城に対して、筑前には国境に沿って6つの城が並んでいた。小倉城から国境までの距離はわずか2kmほどしかなかったため、守りを固くする必要があったのだという。