不知火海を臨む場所にある「水俣市立明水園」が紹介。ここは、水俣病患者の為の唯一の公的施設であり、設立は昭和47年で水俣市が公式に確認されてから16年目の時期だった。患者数は定員は60名で、在宅療養が難しい高齢者や重傷の胎児性患者など施設内は、常に一杯であると説明。半永さんは昭和30年 代々続いた漁師の家に産まれたが、この時に父親は既に発病、半永さんが3歳時に母親が夫と子どもを残して家を飛び出したと説明。半永さんは1歳で入院し、7年後に「水俣市立明水園」で生活を始め19年が経った。夕食後の30分、半永さんの日課は新聞を読むことと紹介。ここで周囲も半永さんを気遣い、話しかけるも理解出来ない。それは自分が分かっている事を相手に伝えられない事と説明。
半永さんは、「周りが何を言っているか分かっているとアピール。言っている事は分かります…みんな分かっていないと思う」と語った。半永さんは、同じ胎児性水俣病の写真を数多く撮ってきた。自分の言葉で伝えられない仲間たちも、ほとんどが30代となった。その中の1人、鬼塚勇治さん35歳は自由に動き回る事が出来ないが、趣味は演歌を聞く事である。また鬼塚さんは20歳を過ぎる頃までは1人で歩く事が出来た事…大好きな石川さゆりさんのショーにも行っていたと説明。
半永さんは、「周りが何を言っているか分かっているとアピール。言っている事は分かります…みんな分かっていないと思う」と語った。半永さんは、同じ胎児性水俣病の写真を数多く撮ってきた。自分の言葉で伝えられない仲間たちも、ほとんどが30代となった。その中の1人、鬼塚勇治さん35歳は自由に動き回る事が出来ないが、趣味は演歌を聞く事である。また鬼塚さんは20歳を過ぎる頃までは1人で歩く事が出来た事…大好きな石川さゆりさんのショーにも行っていたと説明。