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「中島保さん」 のテレビ露出情報

木工職人の中島保さんは約30年前に脱サラしてこの道に入った。その選択には人生の思いがけない出会いがあった。檜原村は林業が盛んな地域だ。森の遊歩道沿いに中島さんの工房がある。村の郵便局だった建物を使っている。木工職人の中島保さんは28年前に木工房を開いた。店内には中島さんが手掛けた木工品が並ぶ。どれにも檜原村の木が使われている。ユニークな発想で付加価値をつける事で檜原村の木の魅力を多くの人に知って欲しいと中島さんは考えている。
中島さんは兵庫・芦屋生まれで東京・吉祥寺育ちだ。大学卒業後、日野市にある大手自動車会社に就職した。40歳を過ぎた頃、工場での勤務となった。ここで檜原村出身の人と出会った事が中島さんの人生に大きな影響を与えた。中島さんは大学時代、山岳部に所属していた。檜原村を訪れるとその自然に魅了され、多くの日々を村の森の中で過ごした。また、得意のサッカーを活かしてサッカークラブを創設した。大人気となった。青柳英さんはこのサッカークラブに所属していた。現在、地元で木工に関わる仕事をしている。青柳さんは「シュート練習をした思い出がある。中島さんにサッカーの楽しさを教わった。普通の大人ではなかった。刺激になる。」等とコメントした。会社が早期退職制度を導入した。
中島さんは早期退職して木工の技術を学ぶ学校に入学することに。中島さんが入学を決意したのは長野県にある木工を学ぶ職業訓練校。しかし安定した生活を捨てるという選択に周囲は大反対だったが、妻・佳代子さんは中島さんの選択を応援していた。少し前に中島さんが生死に関わる大怪我をして治ったから残りの人生は何をやってもいいというのがあったという。佳代子さんの応援もあり中島さんは心を決めた。晴れて入学した中島さん。若者たちと混じって1年間の学業をスタート。厳しいながらも充実した日々だった。青春とは80歳になろうがやりたいことをやっているのが青春なんだと訴える。木工職人になったら中島さんには叶えたい夢があった。それは檜原村の木や木工を多くの人に発信する拠点を作ること。目をつけたのは村の中心部に立っている昭和4年建造の郵便局舎。新しい郵便局ができたことで役目を終え解体寸前の建物を壊さずに移築したいと思っていた。しかし、解体・組み立て、移築先探しと課題が山積みだった。
木工の修行を終える1994年。中島さんは村の成人式で講演を頼まれた。この年はサッカークラブの教え子たちの多くが成人する年でもあった。夢っていうのは「できないものをできる!やる!」というのが夢なんだよということを話して「だからみんな夢を持てよ」という話をしたという。約100人が話を聞いている中、中島さんは「郵便局舎を移築したい」と自分の夢も訴えた。中島さんの熱い想いは会場の人たちに伝わった。聞いていた地元の建設会社が移築に必要な道具を無料で貸してくれることに。さらにサッカーの元教え子たちや村の人々が手伝いに来てくれた。移築先は日本の滝の百選にも選ばれている払沢の滝のすぐ近く。土地の所有者は中島さんがサッカークラブの指導に尽力していたことを知っていて格安で土地を貸してくれることに。建物を解体し少しずつ車で運び組み立てる。移築作業は約1年かかる大工事だった。こうして叶った中島さんの夢。今では檜原村の木の魅力を広める拠点として大勢の人が訪れている。中島さんは長く檜原の木を”宝の山”を守っていかなくちゃいけないと思うと話した。古谷さんは自分の好きなものに忠実であることと人との出会いを大事にすることを教えてもらった等と振り返った。このコーナーでは視聴者からの投稿も募集中。

他にもこんな番組で紹介されています…

2023年8月2日放送 11:30 - 11:54 NHK総合
ひるまえほっと人生の選択
木工職人の中島保さんは約30年前に脱サラしてこの道に入った。その選択には人生の思いがけない出会いがあった。檜原村は林業が盛んな地域だ。森の遊歩道沿いに中島さんの工房がある。村の郵便局だった建物を使っている。木工職人の中島保さんは28年前に木工房を開いた。店内には中島さんが手掛けた木工品が並ぶ。どれにも檜原村の木が使われている。ユニークな発想で付加価値をつける[…続きを読む]

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