能登半島の北淡である輪島市町野町。能登半島地震から2年、町は復興に向けて歩みを進めている。2年前には大地震後も休まず営業している「もとやスーパー」を取材していた。店を営むのは2代目の本谷一郎さんと妻・理知子さんと息子で3代目の一知さんである。こうまでして店を続けるのには理由があった。しかし復興の最中、再び悲劇が町を襲った。震災から9か月後に能登を襲った未曾有の豪雨によりいたるところで河川が氾濫した。約1900棟が被害を受け、20人が命を落とした奥能登豪雨。豪雨の翌日は町のいたるところに爪痕が残されていた。もとやスーパーは流木がガラスを突き破り、濁流で店は無惨な姿となり商品も棚も全てが流され地震よりも豪雨被害は深刻となっていた。もとやスーパー2代目の本谷一郎さんは濁流から商品を救うため店に残ったが水かさが急激に増え逃げ遅れていた。しかし創業約80年親子3代に渡って切り盛りしており“地域の約に立ちたい”という一心で店を続けており「近くの人たちの輪を守りたい」とのことだった。店には全国から集まった災害ボランティアの姿があったが、ニュースで甚大な被害を知り駆けつけてくれていた。そこには一郎さんの孫である悠樹さんの姿もあった。消防士を目指して勉強をしていたが昔からの夢を諦めきれずスポーツ関係の会社に就職していた。“祖父や父の力になりたい”という思いは店をたたむと口にした父・一知さんにも伝わっていた。2代目・一郎さんは仮設住宅へ向かっており、少しでも足しになればと店にある支援物資を袋に詰め住民に届けていた。そして3代目の一知さんもスーパーの再開を決意していた。一昨年11月11日、店の一角に積まれたパンや調味料がありまだ仮オープンという形だが豪雨以来約50日ぶりに営業となっていた。この日は本谷さん一家にとっても特別な日であった。悠樹さんは19歳の誕生日であり、会社を辞めてスーパーで働くことに決めていた。この3週間後には本格的に営業再開となった。一知さんの背中を押したのは地域の絆と父・一郎さんの思いであった。父から受け継いだ大切な店を“地域の光に”したいとのこと。
去年の元日、店には町の人やボランティアの姿があり一知さんと悠樹さんで正月の餅つきをしていた。ついた餅にあんこをまぶし振る舞っていた。去年9月、豪雨災害から1年が経っていた。度重なる災害に見舞われた町野町は公費解体が進み、更地が目立つようになった。手探りで歩み続けたこの1年、本谷さん一家は変わらず店を開け続けていた。ただ1つ変わったことはスーパーで働くことを決めた悠樹さんが車の免許を取得したことである。やって来たのは和菓子屋さんで仕入れたのは地元のあずきと塩で作ったどら焼である。今では父の“右腕”として仕事に打ち込んでいた。さらに週に1度、地元の災害FMのパーソナリティーも務めていた。去年10月には秋祭りの準備が始まっておりスーパーの駐車場で組み立てていたのは住民たちが担ぐ祭りのシンボル「キリコ」である。“なんとしても復興する”と住民たちの熱気が町に溢れた。復興を願う一知さんは「スーパーに宿泊施設を作りたい」という夢を以前語っていたがその夢は少しずつ形になっていた。建物の1/3をスーパーで残りの2/3を宿泊スペースにする予定だという。“何があってもスーパーを続けていく”という思いはこれからも決して変わることはない。
去年の元日、店には町の人やボランティアの姿があり一知さんと悠樹さんで正月の餅つきをしていた。ついた餅にあんこをまぶし振る舞っていた。去年9月、豪雨災害から1年が経っていた。度重なる災害に見舞われた町野町は公費解体が進み、更地が目立つようになった。手探りで歩み続けたこの1年、本谷さん一家は変わらず店を開け続けていた。ただ1つ変わったことはスーパーで働くことを決めた悠樹さんが車の免許を取得したことである。やって来たのは和菓子屋さんで仕入れたのは地元のあずきと塩で作ったどら焼である。今では父の“右腕”として仕事に打ち込んでいた。さらに週に1度、地元の災害FMのパーソナリティーも務めていた。去年10月には秋祭りの準備が始まっておりスーパーの駐車場で組み立てていたのは住民たちが担ぐ祭りのシンボル「キリコ」である。“なんとしても復興する”と住民たちの熱気が町に溢れた。復興を願う一知さんは「スーパーに宿泊施設を作りたい」という夢を以前語っていたがその夢は少しずつ形になっていた。建物の1/3をスーパーで残りの2/3を宿泊スペースにする予定だという。“何があってもスーパーを続けていく”という思いはこれからも決して変わることはない。
