沖縄に住む吉冨弘一さん、戦時中旧海軍のパイロットだった父・肇さんは顔に大やけどをした。両目を完全に閉じることができず、顔にタオルをかけて寝ていた。肇さんは多くを語らず1992年に死去。その後、弘一さんは父のことを調べ、当時の作戦に疑問を持つようになった。肇さんが操縦していた零式水上偵察機(零式水偵)、車輪のかわりに浮きがあり水上で離発着する。もともとの任務は偵察。アメリカ軍が撮影した映像では逃げる零式水偵にアメリカの戦闘機が機銃掃射を浴びせる光景が映っていた。戦争末期は米軍機の方が性能が優秀だったため補足されたら逃げるのは不可能だったという。肇さんが操縦する零式水偵が長崎の佐世保の基地を飛びたったのは1945年4月7日。あの戦艦大和などが沖縄に特攻に向かった末撃沈され、3000人以上とされる犠牲になった日。当時の文書によると、肇さんらは大和を援護するため、奇襲攻撃を命令されていた。戦争末期は飛行機が足りず、偵察機も攻撃を命じられることがあったという。肇さんらは鹿児島湾上空でアメリカの戦闘機の銃撃を受けた。父の背中を追うように弘一さんは海上自衛官になり、36年務めた。その経験から弘一さんは「上層部の当時の使い方が分からない」とコメント。顔のやけどの裏側に無謀な作戦があった。