昭和59年、春の宮島で1人の修学旅行生が土産物を探していた。それが12歳の園上さおりだった。さおりは両親にお父さん、お母さんと書かれたぐい呑みをお土産を買った。中学にはいったさおりは軟式テニス部に入部。ある日、目眩がしコートにしゃがみこんだ。母とさおりは病院で検査。医師は母だけに白血病だと告げた。大学病院に入り、母はさおりに貧血だと伝えた。ここで、さおりは当時大学院生だった大谷貴子と出会った。大谷は英語講師の就職先が決まった矢先に白血病と宣告された。さおりは大谷に英語を教えてと言った。教師の道を諦めた大谷、さおりは大事な教え子となった。その頃、さおりの両親は思い問題を突きつけられた。さおりが助かる道は骨髄移植しかなかった。大谷は母親と骨髄が一致、名古屋大学附属病院で骨髄移植を受けた。その矢先、さおりの病状が急変した。お母さんありがとうとつぶやき、3日後、さおりは亡くなった。15歳だった。ある日、両親のもとに、さおりが書いた作文が届いた。そこには「ふつうの高校生になって、ふつうのお嫁さんになって、ふつうのお母さんになって、ふつうのおばあさんになって、ふつうに死にたい」と書かれていた。大谷はさおりの母から作文を渡された。作文を読み大谷は、移植を担当した医師・森島泰雄のもとに向かった。大谷は森島に「15歳の命が奪われた。こんな思いは二度としたくない」と訴えた。大谷と森島は骨髄バンクのプロジェクトを作るため知り合いを回った。その熱意にサラリーマンや主婦などが加わった。目指すは10万人の骨髄バンク。