1978年、南日本新聞の記者である中野惇夫さんは自給自足で絵を描いていたという田中一村という画家のことを知る。この時中野さんは「すでに亡くなっているがかが記事になるだろうか」と考えていた。しかし代表作である「不喰芋と蘇鉄」を見た時、その迫力に魅せられたという。中野さんは新聞記者として農業やスポーツの記事を書くことが多く、美術とは無縁だったという。田中一村は40歳の時に転機を迎える。満を持して公募展に出品した「秋晴」が落選。ここから落選を幾度となく経験、画壇で評価されることは無かった。1958年、田中一村は一人奄美大島に向かう。大島紬の工房で働き、その後画業に専念する。1977年9月11日、田中一村は亡くなった。
中野惇夫さんは当時の取材で「なぜこんな人がこんなところで」と感じ、画壇の虚構性を感じたと手記に残していたという。中野さんは宮崎さんから田中一村に関して話を聞き、画壇を見返したいと考えていたと話す。さらに個展を開こうと宮崎さんと約束していたという話を聞き、中野さんは自分が中心となって個展を開くことを決断。紹介記事を新聞に載せようとするも、編集部からは芳しい返事を得られない。資金集めなど手探りの中で手探りの状態が続く。しかしその情熱は次第に支援者の輪を広げていくこととなる。当時美術教師だったという西村さんは「不喰芋と蘇鉄」を見た時、田中一村を一流の画家だと感じ、作品の包装を引き受けた。有志の実行委員を立ち上げた中野さんは寄付を募り、1979年に個展を開催。パンフレットは初日に売り切れた。
中野さんの思いは次のジャーナリストへと伝えられる。NHKのディレクターである松元邦暉さんは奄美大島での取材中に田中一村の作品に出会う。松元さんはドキュメンタリー番組のつくり手として知られ、奄美大島を題材にした番組を多く手掛けた。松元さんと田中一村の絵の出会いの現場にいた鶴紀代子さんは「絵を通して会話した、松元さんは選ばれた人なのではないか」と語った。NHK鹿児島放送局に戻った松元さんはすぐに企画書を提出した。難色を示した上司に対し、展示会の写真などを見せ説得した。その後制作した番組は九州、さらに全国で放送される。1984年に放送された「日曜美術館」。直後電話が鳴り止まず画集や展覧会に関して多くの人が関心を持った。すぐに全国を巡る展覧会を実施。田中一村の絵と人生が多くの人を魅了した。後に松元さんは田中一村の絵との出会いの場となった家の家主に「巡り合わせの不思議に思いを巡らせないわけにはいかない」と手紙を送った。当時製作に携わった斎藤さんは「放送人としてこれほど嬉しいことはない」と当時のことを振り返った。
中野惇夫さんは当時の取材で「なぜこんな人がこんなところで」と感じ、画壇の虚構性を感じたと手記に残していたという。中野さんは宮崎さんから田中一村に関して話を聞き、画壇を見返したいと考えていたと話す。さらに個展を開こうと宮崎さんと約束していたという話を聞き、中野さんは自分が中心となって個展を開くことを決断。紹介記事を新聞に載せようとするも、編集部からは芳しい返事を得られない。資金集めなど手探りの中で手探りの状態が続く。しかしその情熱は次第に支援者の輪を広げていくこととなる。当時美術教師だったという西村さんは「不喰芋と蘇鉄」を見た時、田中一村を一流の画家だと感じ、作品の包装を引き受けた。有志の実行委員を立ち上げた中野さんは寄付を募り、1979年に個展を開催。パンフレットは初日に売り切れた。
中野さんの思いは次のジャーナリストへと伝えられる。NHKのディレクターである松元邦暉さんは奄美大島での取材中に田中一村の作品に出会う。松元さんはドキュメンタリー番組のつくり手として知られ、奄美大島を題材にした番組を多く手掛けた。松元さんと田中一村の絵の出会いの現場にいた鶴紀代子さんは「絵を通して会話した、松元さんは選ばれた人なのではないか」と語った。NHK鹿児島放送局に戻った松元さんはすぐに企画書を提出した。難色を示した上司に対し、展示会の写真などを見せ説得した。その後制作した番組は九州、さらに全国で放送される。1984年に放送された「日曜美術館」。直後電話が鳴り止まず画集や展覧会に関して多くの人が関心を持った。すぐに全国を巡る展覧会を実施。田中一村の絵と人生が多くの人を魅了した。後に松元さんは田中一村の絵との出会いの場となった家の家主に「巡り合わせの不思議に思いを巡らせないわけにはいかない」と手紙を送った。当時製作に携わった斎藤さんは「放送人としてこれほど嬉しいことはない」と当時のことを振り返った。
住所: 鹿児島県奄美市