昭和63年8月、プロジェクトは街頭で登録者を募り始めた。しかし「家族ならともかく赤の他人でしょ」などといった声が帰ってきた。大谷たちは厚生省を訪ねたが「健康な人の体を傷つける医療を国民が認めるか」と言われてしまった。森島泰雄はどれだけの痛みを伴うか、正直に話してわかってもらおうとした。昭和63年9月、初めての説明会が行われた。そこにすがる思いできていたのが橋本和浩だった。橋本は大手生命保険会社に務めていたが4ヶ月前、会社の診断で白血病と診断されてしまった。説明会で園上さおりの「ふつうのお嫁さんになって、ふつうのお母さんになって」という作文を読むと会場は静まり返った。橋本は、大谷に私も患者ですと声をかけた。会が終わると100人もが骨髄の提供者として協力すると並んでいた。しかし資金が底をつくという問題が起きた。骨髄の型を調べる検査は72種類もの薬品を使い1人につき2万円かかった。会計担の三品雅義は必死で金集めに走った。その頃、大谷の元に1通の封筒が届いた。中には20万円と手紙があった。手紙には「7歳になる息子が白血病で亡くなりました。香典の一部です役に立てて下さい」と書かれていた。大谷がお礼に行くと仏壇の横に真新しいランドセルが置いてあった。
平成元年4月、骨髄バンクの登録者は400人になり、患者と提供者の照合が始まった。1組が一致した。医師の北折健次郎は提供者に会いに行った。相手は40代の男性。妻もいて「もしものことがあったらどう責任を?」と言われ断られた。その後も型が一致した提供者たちは「あのときは軽く考えていた」と言い放った。
平成元年4月、骨髄バンクの登録者は400人になり、患者と提供者の照合が始まった。1組が一致した。医師の北折健次郎は提供者に会いに行った。相手は40代の男性。妻もいて「もしものことがあったらどう責任を?」と言われ断られた。その後も型が一致した提供者たちは「あのときは軽く考えていた」と言い放った。