2012年、東日本大震災から1年。1人の高校生にプロ野球スカウトの視線が釘付けだった。投げれば当時高校生史上最速160km。打っては通算56本塁打。それが花巻東高校の大谷翔平だった。投手か打者か、どちらも1位指名レベル。スカウトたちは大谷の話題で持ち切りだった。しかしドラフト会議の4日前、大谷は「メジャーに挑戦したい」と打ち明けた。多くの球団が指名を見送る中、日本ハムファイターズは大谷を指名した。しかし大谷は「どこの球団に引いていただいてもアメリカでやろうという決断をしたので変わらない」と応えた。日本ハムはかつて東京ドームを本拠地としながら優勝には手が届かず長く低迷していた。転機は8年前、本拠地を北海道に移し球団の方針を刷新したことだった。掲げたのは「Challenge with Dream」。常識に縛られず夢を持って挑戦することだった。チームには外国人監督など多様な人材を取り入れた。コーチ経験のなかった栗山英樹の監督抜擢もその最たるものだった。大物選手の獲得に多額の資金を投じられない中、スカウトと若手の育成でスター選手を育て上げた。わずか8年で4度のリーグ優勝を成し遂げるなど快進撃が続いていた。メジャー行きを宣言した大谷との交渉が2人の男に託された。それが山田正雄と大渕隆だった。11月2日、2人は大谷の実家を訪れ、本人同席のもと指名挨拶が始まった。メジャー行きの決意は固く話は取り付く島もなかった。そんなとき、大谷が飼っていたエースという犬が吠えた。山田は大の愛犬家だったのでエースに近寄り声をかけた。これがきっかけで場が和み始めた。2人は「世界のトップで活躍したい。長く現役でいたい。誰も成し遂げていない新しいことをしたい」という大谷の将来の目標を聞き取った。大谷の夢を叶えるため、大渕は資料作りに取り掛かった。日本にや韓国からメジャーに行った選手の情報を調べ上げた。すると国内で実績を残さずにメジャーで成功した事例は5.7%。さらに国内には投打の才能を伸ばせる土壌があることが分かった。そして琵琶湖の写真を1枚資料に加えた。「急がば回れ」の語源とされる地。風で船が進まぬ湖より遠回りでも陸路のほうが確実で速いという教えだった。こうして「大谷翔平くん 夢への道標」という資料が完成。11月10日、2人は大谷の家に行き両親に説明した。そのとき母は「両方やるというのはないのかね?って昔話した。そしたら本人がそんなの球団が許すわけがないと言われちゃった」と話した。監督に就任した栗山秀樹はかつてスポーツキャスターとして大谷を直撃取材し、投打の素質に衝撃を受けていた。11月26日、栗山自ら大谷のもとを訪れ「エースで4番になってほしい」と伝えた。投打2刀流。この提案を受け大谷は入団を決意した。前代未聞の二刀流プロジェクトが始動した。
