フジコ・ヘミングは16歳の時に中耳炎をこじらせて右耳の聴力を失ったが、左耳を頼りにピアノを続けた。東京藝術大学に進み、21歳の時に音楽コンクールで入選を果たす。西ドイツへの留学の手続きをしたところ、無国籍者となった。戦後の混乱のなか国籍選択の手続きをしていなかったためだった。国外に出られなくないと言われたが、彼女のファンだったドイツの対しが手続きをしてくれてドイツに行けたという。29歳で避難民として西ドイツへ渡った。ドイツの新聞で「ショパンとリストのために生まれたピアニスト」と紹介された。ウィーンへと拠点を変えると、レナード・バーンスタインらの目に留まり1969年にピアノリサイタルを開くことになった。しかし直前に高熱を出し左耳にもダメージを受け、コンサートは中止となった。その後大きなチャンスが巡ってくることはなく、ドイツで1人ピアノ教師として生計を立てた。その後母の死がきっかけで1995年に34年ぶりに帰国。1999年に「奇蹟のカンパネラ」が大ヒットとなった。