全壊を免れた人々は元の暮らしを取り戻そうとしていた。姿地区の小学生は2人であり、花木はバスで学校へ通う孫を見送るのが日課になっていた。少子化が進み、姿には保育園がなくなり、小中学校も統合された。氷見市立灘浦小学校でこの日先生役を担当した花木はフルーツポンチの調理実習を行った。北鹿渡住職も生徒たちに卓球を教え、地域ぐるみで子どもたちを育てており、被災以来沈んでいた子どもたちの表情も明るさを取り戻してきていた。花木一家は雅治の気持ちを第一に考え、姿地区に残ることにしていた。花木は今が幸せでこれ以上のものは求めないのだなどと語った。
姿の復興を願って北鹿渡住職は毎月言葉を綴って住民たちを励まし続けている。地震から半年が経っても住めなくなった家々は残されたままとなり、復興の第一歩とされる公費解体が進んでいなかった。8月14日、岸田総理(当時)は辞任することを表明した。
姿の復興を願って北鹿渡住職は毎月言葉を綴って住民たちを励まし続けている。地震から半年が経っても住めなくなった家々は残されたままとなり、復興の第一歩とされる公費解体が進んでいなかった。8月14日、岸田総理(当時)は辞任することを表明した。