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「学習院初等科」 のテレビ露出情報

3月10日、東京大空襲の犠牲者らの法要に参列された秋篠宮ご夫妻。約10万人の命が失われたのは今から80年前の1945年。上皇さまは初等科6年生の11歳、上皇后美智子さまは国民学校5年生の10歳だった。同級生と共に栃木県に疎開し、厳しい生活を余儀なくされていた上皇さま。終戦の日は奥日光の宿泊施設でラジオに耳を傾けられたそう。上皇さまは静かに涙を流し、微動だにされなかった。疎開先から戻った上皇さまは生涯忘れることのできない光景を目の当たりにされた。一方の上皇后さまは疎開先を転々とされ、最後は長野県の軽井沢へ。上皇后さまは疎開生活の大変さを自らのお言葉で語っている。さらに叔父が空襲で戦災死。身内の死が幼き上皇后さまの心に暗い影を落とした。戦争を身を以て体験されたお二人。310万人の国民が亡くなり、アジア太平洋で未曾有の犠牲者を出した戦争を日本は止めることができなかったのか。上皇さまが戦後70年近く経っても重い問いに向き合われてきたことが「平成の天皇皇后両陛下 大いに語る」で明らかになっている。上皇ご夫妻が戦後70年までの3年間、計6回20時間以上に及び、昭和史研究科・保阪正康さんらと懇談された記録。先の大戦にまつわる話はほぼ毎回のように話題に上り、特に上皇さまが気にされていたのが「満州事変」。満州事変とは関東軍の独断による軍事行動。線路爆破を中国側の犯行に仕立て上げ、中国東北部を制圧し「満州国」を建国した。満州事変は終戦まで続く15年の戦争の始まりとなった歴史的転換点だった。その経緯を詳細に説明すると、上皇さまは「それでは満州事変は関東軍が仕掛けた謀略という理解でよろしいのですね」と話されたという。上皇さまのご発言には「昭和天皇は望まないのに満州事変が拡大」したという本質的な疑問が隠されていたという。保阪さんは「満州事変は親子二代にとって痛恨の痛みに違いない」と実感したそう。昭和天皇は軍部の暴走を止められないまま、日本は日米開戦にまで突き進むが戦況は悪化。昭和天皇は無条件降伏のポツダム宣言を受諾し終戦を迎える。上皇さまは戦後70年に「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」と訴えられている。
住所: 東京都新宿区若葉1-23-1
URL: http://www.gakushuin.ac.jp/prim/

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年5月1日放送 5:25 - 8:14 フジテレビ
めざましテレビNEWS
きのう夕方、皇后さまが東京・千代田区の紀尾井ホールに到着され、これに先立ち、日本赤十字社での仕事を終えた愛子さまも入られた。ホールでは患者の心のリハビリのため、病院に防音室を寄付するチャリティコンサートが開催。これは愛子さまの学習院初等科の同級生でおととし21歳の若さで亡くなったチェリストの山本栞路さんの意志を受け継いだ活動。去年のコンサートには天皇陛下とご[…続きを読む]

2025年5月1日放送 5:20 - 8:00 TBS
THE TIME,NEWS
きのう東京・千代田区でチェロのチャリティーコンサートが催され、皇后さまと仕事終わりの愛子さまが私的に鑑賞された。コンサートは愛子さまの学習院初等科の同級生でおととし亡くなったチェリスト・山本栞路さんを偲び開催。山本さんは入院中病院への防音室の設置を願っていた。コンサートの収益はそのために寄付される。皇后さまと愛子さまは2階席に並んで座り、約2時間のコンサート[…続きを読む]

2025年1月18日放送 5:15 - 5:30 TBS
皇室アルバム(皇室アルバム)
12月16日、佳子さまが「みどりの『わ』交流のつどい」に出席。緑豊かなまちづくりに貢献した人たちを表彰する式典で、出席は今回で3回目。式典のあと、受賞者らと懇談。
12月29日、佳子さまは30歳のお誕生日を迎えられた。去年元日の地震や9月の豪雨で能登半島の人たちが甚大な被害を受けたことに心を痛められているといい、地震直後に出席した式典では手話を交えてお見舞[…続きを読む]

2025年1月5日放送 5:45 - 6:00 フジテレビ
皇室ご一家(皇室ご一家)
令和7年、天皇ご一家は新年に当たり映像を公開。ご覧になっているのは能登地方にまつわる伝統品。被災地の復興が着実に進むことを願われている。元日、両陛下などは皇居・宮殿にて新年祝賀の儀に臨まれた。去年三笠宮妃百合子さまが亡くなられたことを受け、三笠宮家・高円宮家の皇族方は出席せず。午後、各国の駐日大使らから新年挨拶を受けられた。去年成年になられた悠仁さまは、成年[…続きを読む]

2025年1月1日放送 5:00 - 6:30 テレビ東京
皇室の窓皇室の窓
天皇ご一家がご訪問された昭和天皇記念館にやってきた北村と水原。幼い昭和天皇が女の子の服装をしているがヨーロッパでは幼い男の子に女児の服装をさせるという習わしがあった。そして昭和天皇が学習院初等科だった頃の制服が。質実剛健をモットーとした当時の学習院院長が穴を空いているのを着てはいけないが、継ぎのわたったのを着るのはちっとも恥ではないと話、それを昭和天皇は守ら[…続きを読む]

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