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4月7日、天皇皇后両陛下が、先の大戦で3万人近くが戦死した硫黄島を訪問、祈りを捧げられた。また、元島民の家族・遺族に心を寄せられた。戦後80年のことし、両陛下は、令和・慰霊の旅をされる見通し。
小学生の時から先の大戦の歴史を学ばれていた秋篠宮家の長男・悠仁さまがことし2月12日、舞鶴市を訪問された。舞鶴市は、旧ソ連などによって抑留された約66万人が引き揚げ者として帰国した場所。舞鶴引揚記念館では、苦難の歴史にふれることができる。この記念館を訪問された悠仁さまは、語り部の話を聞かれた。
ことし3月3日、成年にあたり初の会見で、悠仁さまは「天皇皇后両陛下や上皇上皇后両陛下が公的なお務めにお心を込めて取り組まれているお姿を拝見し・・・」などと平和へのおもいを伝えられた。悠仁さまは幼い頃から「慰霊の旅」ともいえる各地(沖縄・糸満市の平和の礎、長崎市の平和公園・原爆落下中心地碑、広島市の平和公園・原爆慰霊碑)への訪問で歴史を学ばれてきた。
平和への思いは愛子さま・佳子さまにも。戦争の歴史を学ばれたり、戦中戦後の人々の苦難に触れられたりした(鳥取・境港市の玉栄丸慰霊碑の訪問、東京・千代田区の昭和感の訪問)。2022年 3月、成年となられた愛子さまは「ウクライナ国内で多くの尊い命が失われていることに非常に心を痛めております」などとおもいを伝えられた。
ロシアのウクライナ侵攻、ガザ地区、台湾有事、北朝鮮核ミサイル問題など、戦後80年たち日本をとりまく環境が激変しているが、それでも皇室の平和へのおもいは変わらない。61歳の誕生日に際し天皇陛下は「人々が対話を重ねていくことの大切さを感じます」などと感想を寄せられた。
オープニング映像。
3月10日、東京大空襲の犠牲者らの法要に参列された秋篠宮ご夫妻。約10万人の命が失われたのは今から80年前の1945年。上皇さまは初等科6年生の11歳、上皇后美智子さまは国民学校5年生の10歳だった。同級生と共に栃木県に疎開し、厳しい生活を余儀なくされていた上皇さま。終戦の日は奥日光の宿泊施設でラジオに耳を傾けられたそう。上皇さまは静かに涙を流し、微動だにされなかった。疎開先から戻った上皇さまは生涯忘れることのできない光景を目の当たりにされた。一方の上皇后さまは疎開先を転々とされ、最後は長野県の軽井沢へ。上皇后さまは疎開生活の大変さを自らのお言葉で語っている。さらに叔父が空襲で戦災死。身内の死が幼き上皇后さまの心に暗い影を落とした。戦争を身を以て体験されたお二人。310万人の国民が亡くなり、アジア太平洋で未曾有の犠牲者を出した戦争を日本は止めることができなかったのか。上皇さまが戦後70年近く経っても重い問いに向き合われてきたことが「平成の天皇皇后両陛下 大いに語る」で明らかになっている。上皇ご夫妻が戦後70年までの3年間、計6回20時間以上に及び、昭和史研究科・保阪正康さんらと懇談された記録。先の大戦にまつわる話はほぼ毎回のように話題に上り、特に上皇さまが気にされていたのが「満州事変」。満州事変とは関東軍の独断による軍事行動。線路爆破を中国側の犯行に仕立て上げ、中国東北部を制圧し「満州国」を建国した。満州事変は終戦まで続く15年の戦争の始まりとなった歴史的転換点だった。その経緯を詳細に説明すると、上皇さまは「それでは満州事変は関東軍が仕掛けた謀略という理解でよろしいのですね」と話されたという。上皇さまのご発言には「昭和天皇は望まないのに満州事変が拡大」したという本質的な疑問が隠されていたという。保阪さんは「満州事変は親子二代にとって痛恨の痛みに違いない」と実感したそう。昭和天皇は軍部の暴走を止められないまま、日本は日米開戦にまで突き進むが戦況は悪化。昭和天皇は無条件降伏のポツダム宣言を受諾し終戦を迎える。上皇さまは戦後70年に「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」と訴えられている。
上皇ご夫妻は1994年2月12日硫黄島を訪問した。遺骨の未収集は国内外に約112万柱ある。1995年7月26日長崎を訪問し翌日広島を訪問した。8月2日沖縄を訪問し国立沖縄戦没者墓苑で花を手向けた。翌日東京大空襲の犠牲者を慰霊した。沖縄慰霊の日・広島・長崎原爆の日・終戦の日を忘れてはならない4つの日として黙祷されてきた。2015年6月27~28日サイパンを訪問し通称「バンザイ・クリフ」で慰霊をした。2015年4月8~9日パラオを訪問し白い菊の花を手向けた。2016年1月26~30日フィリピンを訪問し墓地で2分近く頭を下げた。
ご退位まで続いた慰霊の旅の中でも沖縄の旅は特別な思いで臨んでいた。上皇ご夫妻は11回沖縄を訪問、その気持は天皇皇后両陛下にも受け継がれ皇太子時代から沖縄を6回訪問、原点に迫る。
今は在日米軍基地の70%が集中する沖縄、発端は80年前の壮絶な地上戦にあった。敗色濃厚だったのにもかかわらず日本は降伏することなく沖縄戦に突入、軍民合わせ20万あまりが亡くなっただけでなく県民ほとんどが収容所に押し込められ広大な土地が軍用地になった。1951年サンフランシスコ平和条約に調印し日本は主権を回復したが沖縄は返還されず過酷な暮らしを強いられた。終戦から27年後に変換されたが沖縄の人々は複雑な思いを抱えていた。昭和天皇の気持ちについて研究第一人者の保阪正康さんは「戦争のときの沖縄の悲惨な状況については報告を聞きながら心を痛めていた。同時に戦争が終わった後東西冷戦の時代で沖縄に軍事基地を作るアメリカの戦略に対し容認する形をとった」とした。昭和天皇の考えが終戦直後にGHQに「天皇メッセージ」として伝えられていたことが後にわかる。「米国による軍事占領は日本の主権を残したままで長期租借によるべき」とされ2014年公開の昭和天皇実録でも触れられている。その後どう影響したのか専門家の見方は様々だが事実、沖縄は27年返還されなかった。保阪氏は「昭和天皇のお気持ちはかなり苦しかったと思う。苦しさを生涯かかえていたから沖縄へ行き沖縄の人たちを慰めたいんだと」とした。
上皇ご夫妻は1975年、沖縄を初めて訪問された。沿道には歓迎する人がいる一方、沖縄訪問に対する反対運動も続いていた。最初に向かわれたひめゆりの塔で、男が突如火炎瓶を投げつけた。お二人はご無事で、慰霊碑に祈りを捧げ、最後まで日程を全うされた。天皇に即位された後も、沖縄に心を寄せ続け、1996年の誕生日会見では、沖縄県民の幸せに配慮した解決の道が開かれていくことを願っているなどと述べられた。上皇さまは、沖縄の文化にも関心を持たれた。琉球地方で伝承される叙情的な歌謡「琉歌」を学ばれていた。終戦の前年、沖縄の子どもたちを乗せた疎開船「対馬丸」が長崎に向かう途中、アメリカの魚雷攻撃で沈没し、1484人が亡くなった。子どもたちの多くは上皇ご夫妻と同年代だった。以前から強い関心を持たれていた上皇ご夫妻。10回目のご訪問で、記念館の見学が実現した。2008年には、秋篠宮ご夫妻とともに佳子さまが対馬丸の企画展に足を運ばれている。1960年代から続く沖縄の豆記者との交流。豆記者とは、課外活動で各地を取材し、学校新聞などで発表する小中学生のことで、その交流は、皇太子だった両陛下に引き継がれた。愛子さまも2度、沖縄の豆記者との懇談に参加されている。秋篠宮ご一家が担当になると、悠仁さまもご参加。豆記者が沖縄と皇室の絆を深めてきた。
2017年のノーベル平和賞は、核兵器禁止廃絶のための活動をする国際NGO「ICAN」が受賞。同年、上皇后さまは、お誕生日の文書回答で、その受賞を称えられた。国連の軍縮部門トップ中満泉事務次長は、上皇ご夫妻に軍縮問題の現状を伝えていた。上皇后さまは、地域の持続的経済発展を助けることで、そこで起こり得る紛争を回避することも軍縮の業務の一部であることを教えられ、今後この分野にも関心を寄せていくうえでの助けになると嬉しく思ったなどと記された。その後、天皇御一家も中満事務次長との懇談を続けられている。2020年の懇談では、核軍縮をめぐる現状や核兵器禁止条約についての説明を両陛下にしたという。懇談中、中満事務次長は両陛下から、愛子さまが中学卒業時に世界平和について書かれた作文を手渡されたという。愛子さまは、世界の平和の実現は容易ではない、今でも世界各地で紛争に苦しむ人々が大勢いる、日常生活の一つ一つに感謝し、他の人を思いやるところから平和は始まるのではないだろうかなどと記されている。
今夏、戦後80年の終戦の日を迎える。全国戦没者追悼式で、平和への思いを伝えてこられた上皇さま。平成の30年間、毎年お言葉を積み重ねてこられた。上皇さまのお言葉を令和の時代も受け継がれてきた天皇陛下。戦後80年の追悼式で、ことしも思いを伝えられる。皇室は、先の大戦を原点に上皇ご夫妻から両陛下へ、そして次の世代へと平和への強い思いを受け継いでいく。
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