1975年まで続いたベトナム戦争は今月30日で集結から50年となる。この戦争では世界中からジャーナリストが戦場に入り、その報道が世界の反戦運動にも大きな影響を与えた。ホーチミンにあるベトナム戦争を伝える博物館に展示されているタイトル「安全への逃避」の写真。飛び交う砲弾から逃れるため、川を渡って逃げる2組の親子を捉えた1枚。撮影したのは日本人カメラマンの澤田教一さん。ベトナム戦争が本格化する中、最前線でシャッターを切り続けた。澤田さんが歴史に残る1枚を撮影したベトナム中南部のビンディン省に住むリエンさんは、60年前に家族と共に澤田さんが撮影した写真の被写体となった。撮影の翌年、賞を授賞した澤田さんは直後にリエンさん家族を訪れ、写真と共に食料や現金を渡した。その後澤田さんは1970年にカンボジアで取材中凶弾に倒れ亡くなった。
テレビが伝えた戦争とも呼ばれたベトナム戦争。タイを拠点に今もジャーナリストとして活動する宇崎真さんも戦争を伝えた一人だった。当時北ベトナム側では唯一の西側映像メディアだった日本電波ニュース社の特派員として1971年から2年余りハノイに駐在した。滞在先 だったホテルには当時使われた防空壕の一部が残されている。米軍は連日B-52爆撃機が市街地などに爆弾を投下し、その度にカメラを持って防空壕へ避難したという。宇崎さんが撮影した映像では、アメリカ軍の爆撃を受けた市内の病院では医師や看護師など28人が犠牲となった。映像は日本のテレビ局はアメリカの3大ネットワークなどに配信された。ベトナム戦争から50年、宇崎さんは戦争の不条理な真実を伝えることがジャーナリストの責務だと今改めて考えている。
テレビが伝えた戦争とも呼ばれたベトナム戦争。タイを拠点に今もジャーナリストとして活動する宇崎真さんも戦争を伝えた一人だった。当時北ベトナム側では唯一の西側映像メディアだった日本電波ニュース社の特派員として1971年から2年余りハノイに駐在した。滞在先 だったホテルには当時使われた防空壕の一部が残されている。米軍は連日B-52爆撃機が市街地などに爆弾を投下し、その度にカメラを持って防空壕へ避難したという。宇崎さんが撮影した映像では、アメリカ軍の爆撃を受けた市内の病院では医師や看護師など28人が犠牲となった。映像は日本のテレビ局はアメリカの3大ネットワークなどに配信された。ベトナム戦争から50年、宇崎さんは戦争の不条理な真実を伝えることがジャーナリストの責務だと今改めて考えている。