中田喜子さんは69歳になり、亡き母と同じ年になった。中田さんが18歳で死んでしまうと占われたことを母は信じていた。そのため、中田さんは母が亡くなったときに、自分はいつ死んでもいいと思えるようになった。中田さんは女手一つで育てられ、日舞を習っていて、姉は日舞の才能があったという。母は寡黙だが聡明な人だったと中田さんは振り返った。築地でしていた家業は姉が宝塚歌劇団をやめて引き継いだ。市場移転の際、最初は豊洲に移ると言っていたが、廃業を決意した。中田さんは姉と生存確認のLINEスタンプを互いに送り合っている。5月にかつてやっていたピラティスを再び始めた。教室では若い人たちが皆着替えてから来ていて、中田さんも影響されて着替えてから教室へ行くようになった。行けるときは週2回、夏の暑い時期は週1回通っている。