2024年2月3日放送 15:05 - 16:17 NHK総合

ファミリーヒストリー
吉岡秀隆〜いくつもの“縁”に導かれた俳優の道〜

出演者
寺門亜衣子 今田耕司 吉岡秀隆 
(オープニング)
オープニング

オープニング映像。

俳優 吉岡秀隆

映画男はつらいよやドラマ北の国からなど、国民的作品で一躍注目を集めたひ吉岡秀隆。役者の道を進ませたのは、人見知りの息子をあんじた両親だったという。役者を何度もやめたいと思ったこともあるというが、そんな秀隆を突き動かしてきたものはなにかと知りたいと感じている。

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ファミリーヒストリー 吉岡秀隆
昭和の芸能支えた父 ルーツは映画の街

吉岡秀隆の母の明子さんは、夫の正隆さんについては舞台やテレビの美術担当として、45年以上昭和の芸能を支えてきた。一生懸命で仕事熱心だったという。その戸籍で確認できる吉岡家の最も古い先祖は大田蒲田で暮らしている。その本家を守る吉岡芙美子さんは、その先祖の墓を紹介してくれた。石碑には江戸末期の吉岡家の先祖がこの地に暮らして250年目を迎えたと刻まれていた。その昔、旧蒲田村を所有していたが力をいれたのは花の栽培。北蒲田は古くから花の栽培の本場で、他の農作物よりも高く売れる花の栽培が盛んだった。村でも屈指の名家となった吉岡家は明治以降村長や村会議員などを吉岡の名が連なっている。そして明治の終わり頃に秀隆の曽祖父が北品川で生花店を開いた。官庁や宮内庁御用達の花屋で秀隆の祖母と祖父が経営していた。祖父は大店の長男で何不自由なく育てられた正雄は、お坊ちゃん気質そのものだったという。息子の康治さんは、父は贅沢三昧で優しい人だったという。昭和7年に秀隆の父の正隆が誕生した。いたずらをしては幼稚園から帰されるほどやんちゃな少年だったが遊び場に困ることはなかった。正隆が自ら生い立ちを綴ったメモがあり、花屋のすぐの商店街には毎日のように遊びに来ていた場所が。品川娯楽管は正隆の叔父が経営していた映画館で、二階桟敷席が遊び場で、毎日のようにチャンバラ映画を観て育ったという。

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豊かな暮らしが一変 吉岡家の苦境

昭和16年には太平洋戦争が勃発。戦争の真っ只中で少年時代を過ごした。昭和20年の3月10日には東京大空襲が発生。当時12歳だった正隆はのちにこの日のことを記している。正隆とその家族は皆無事だったが店と家が空襲の消防活動のために強制疎開の対象に。店は閉店し立ち退きを余儀なくされた。父の正雄は立ち退きにあたり、支払われた保証金と貯金で郊外に家を買おうとしたが、詐欺にあいお金だけとられてしまったという。このことで華やかで豊かな暮らしから一変したという。

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家族を支え続けた祖母 吉岡家の苦境

行き場を失った吉岡家は宮城県栗原市へ。頼ったのはたによの実家の寺。たによは寺の娘として育った。寺を守る親戚は当時一家が暮らしていた場所を案内したがそこは味噌などを保管していた物置に親子7人で身を寄せ合っていたという。家業を花屋でしか働いた経験のない正雄は役場に勤めるが長続きはしなかった。田舎の土地にも馴染めずに心労から胃潰瘍になり入院した。一家の暮らしはたによにかかっていた。家の裏に畑を開梱し、栗を拾って家族で食べられるものは何でも集めた。それでも暮らしは厳しいものだったという。

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初めて知る 父の苦境の青春

正隆はたによの兄が教師をしていた宮城の工業学校に入学。この時学ぶ建築の基礎が正隆を助けることになるという。弁当を持っていく余裕もなく、それでも急激なインフレで暮らしは厳しいままだったという。昭和25年に18歳となった正隆は高校を卒業後に上京することに。夜間学校に入学し、仕事と両立しようとしていた。たによを助けたいと工務店で働き始めた。そんな矢先吉岡家の親戚から連絡が入り、曾祖母のなるが半身不随になりこれ以上面倒を見きれないと言われたという。夜間学校も仕事もやめて正隆は祖母介護のために関西へいくことに。その後祖母はたによの元で亡くなったという。

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映画・ドラマの世界へ 道を見つけた父

昭和27年には母のたによたちが宮城から引き上げてくることに。父の正雄は埼玉の大学で警備員になりその社員寮に家族で入ることができたという。家族の暮らしが落ち着いてきた所で正隆は新聞の募集記事の舞台のセットを作る会社に就職した。この職場で衣装担当として入社してきた1人の女性の中澤明子と出会う。

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もう一つのルーツ 母方・中澤家

今年89歳になる母・明子さん。40年近く、ダンス教室に通っている。子どもの頃からダンスを初め学芸会でも活躍した。憧れは姉・澄恵、宝塚歌劇団の女優だった。祖父母も大の芝居好きだった。母方・中澤家のルーツを辿る。戸籍で確認できる一番古い先祖が住まいは旧大津村だった。中澤一眞さんの家には家系図が残されていた。南北朝時代に遡る中澤家の先祖を祀る神社が地元にある。

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石碑に刻まれたルーツ 南北朝 歴史に残る武将

石碑には「大伯父は新田義貞」と刻まれていた。秀隆の先祖中澤修理太夫重清は、義助の孫とされている。鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞は、足利尊氏と対立していた。重清は家臣の家臣の中澤に育てられ、その姓を名乗るようになったと記されていた。付近の新田神社の碑文でも同じように伝えられている。

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祖父・竹三郎 流転の人生を生き抜く

明治26年、中澤家の長女・中澤孝が誕生する。女学校を卒業した才色兼備な女性だった。中澤孝は、開業したばかりの歯科医・安井竹三郎と結婚。後の秀隆の祖父になる。吉岡秀隆は、幼い頃竹三郎と暮らしていた。実は祖父竹三郎はその生涯で3回名前を変えている。吉岡明子は、親戚から託されていた手紙があり、「今の間に渡しが知っていることを言っておきますって教えてくださった」と説明。明子の父の出自である柴木の家は、大阪城に使えていた下級武士の家だったそうで、竹三郎の祖父は柴木辰次郎。柴木辰次郎を調べてみると、辰次郎は明治維新の後、大阪・難波村で酒屋を営んでいた。明治25年、柴木竹三郎は生まれた。戸籍には父の名は記されていない。竹三郎は利発な少年だった。明治38年には竹三郎は安井家の養子になった。学業に優れた竹三郎は旧龍野中学校に入学する。中学校には、当時生徒が竹三郎を評した記録が残されていた。竹三郎は養子先とのおじとの折り合いが悪く、伯父夫婦は新たな養子を迎え入れていた。竹三郎の居場所はなかった。そんな時、さらに寂しさを募らせることがあった。秀隆の母・明子さんは「本当の自分の親を訪ねたときにすごい冷たい仕打ちをされて、もう二度とそこは縁を切ったって言ったらしいんですね」「結婚してまもなく母の方の姓になっているんです」などと説明した。

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歯科医を志した祖父 竹三郎 孤高の闘い

竹三郎は独り立ちするための道を模索する。上京し、神田の歯科医の元で修行を始めた。竹三郎が師事したのは当時、社会歯科学の先駆け的存在だった前田慶次。竹三郎は前田の元で学んだのち、単身で北海道・室蘭に渡った。東京歯科大学 平田創一郎教授は、竹三郎が前田医師から大きな栄養を受けていたと推察し、「当時北海道は非常に歯科医師が少ない状況でした」「竹三郎先生安易に ただ単に歯科医師の免許を取るんだということではなく険しい道を選んで自らを高め研鑽するという」等と話していた。

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孤独を乗り越えて 築いた自らの家族

竹三郎さんは結婚後、中澤に変え歯科医院を開業した。貧しい人から金を取らず差別なく、どんな患者にも接し噂を聞きつけた人が列をなすほどだった。妻・孝も手伝い懸命に支えた。昭和9年、5人兄妹の末っ子・明子さん、のちの母親が誕生する。

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戦死した母の兄 初めて知る激動の歳月

吉岡には気になる伯父がいる。母・明子さんの兄・正一さん。医師を志していたが戦死を遂げる。その死は明子さんの心に深い悲しみを刻む。正一さんは末っ子の明子さんを誰よりも可愛がってくれたという。洋画とロシア文学が好きだった正一さんは映画「白鳥の死」を繰り返し見ていた。昭和18年、京都大学医学部に進学する。長男が自分と同じ医学を志すことに竹三郎さんは喜びを感じていた。しかし日本の戦局が悪化するなか、海軍予備学生に志願する。そして海軍少尉となり海上護衛隊に配属された。乗り込んだのは海防艦。内地へ石油を運ぶためのタンカー船などを防衛する船だった。当時、フィリピンが占領され日本は制空権を失っていた。危険な状況下でレーダーを駆使し米軍の潜水艦や船をみつけることが任務だった。移動するたび竹三郎さんは家族を連れ日本中の軍港を回った。昭和17年12月、正一さんは海防艦「昭南」に乗艦し無事、シンガポールに到着した。2月18日、石油を積んだタンカーを護送しシンガポールを出発し内地への帰路についた。そして25日未明、南シナ海でアメリカ軍の魚雷攻撃を受け217名が戦死。中澤正一さんは24歳の若さで命を落とした。正一さんを失った竹三郎さんの悲しみは深いものだった。長女・次男の病死に続き3人目の我が子の死だった。そして不幸は重なり竹三郎さんの歯科医院は尼崎の空襲で全焼した。失意の中、竹三郎さんは一家で幼少期を過ごした赤穂に移り住み歯科医院を始めた。残された2人の存在が竹三郎さんの心の支えとなった。

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失意の中澤家 希望はタカラジェンヌの姉

悲しみに暮れていた中澤家に光を灯したのは次女・澄恵さん。昭和21年4月、宝塚歌劇団の初舞台を踏むことになった。初々しい娘役として女優の道を進み始める。澄恵さんの舞台を見ることが中澤家の喜びとなった。

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宝塚歌劇団
憧れの姉が教えてくれた 衣装に魅せられて

明子さんも小学校の頃から歌や踊りが得意な少女だった。中学時代は文化祭の舞台で大役に抜擢されることも少なくなかった。中学時代の友人は印象深く記憶していた。姉澄恵さんが揃えてくれたハムレットの衣装に身を包んだ明子さん。学芸会の衣装は姉が用意してくれた。やがて明子さんの関心は衣装へ向いていく。高校卒業後、衣装デザインの専門学校へ入学する。そして20歳の時、状況し舞台制作の現場で衣装を手掛けるようになる。

初めて知る 若き父と母のなれそめ

昭和29年、舞台装置の会社の衣装部に就職した明子さんは1人の男性と出会う。吉岡秀隆の父となる吉岡正隆さんは舞台の大道具を担当していた。正隆さんの誠実さに惹かれ昭和35年4月、正隆さんと明子さんは結婚。2年後に長女が誕生する。

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帝国劇場
舞台に懸ける父の情熱 とことん仕事と向き合う

昭和41年、帝国劇場が再開場された。公演の目玉となったのが普及の名作「風と共に去りぬ」大道具の責任者として白羽の矢が立ったのは正隆さんだった。当時、演出助手だった宮崎さんは新たな挑戦に挑む正隆さんの姿を鮮明に記憶していた。正隆さんが考案した仕掛けは多くの舞台で使われることになる。あらゆるシーンで装置に工夫をこらしスペクタクルな世界観を描き出した舞台は評判を呼び大成功を納めた。

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タカラジェンヌだった伯母 病魔との闘い

精力的に仕事をこなす正隆さんを明子さんが支えた。しかし、その心には大きな重りがあった。姉・澄恵さんは宝塚で女優として活躍したが結核を患い脱退した。療養を続けるも体調は悪化するばかり。それでも明子さんのお産のときには駆けつけ世話を焼いてくれた。長男に続き澄恵さんも志半ばで。家族を守りたかった竹三郎さんは苦しんでいた。昭和40年7月、姉・澄恵さんは結核により亡くなった。女優として舞台に立てたのは発病までのわずか6年間だった。

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母の新たな希望 秀隆の誕生

それから5年後、明子さんの心に明かりを灯したのは長男・秀隆の誕生だった。姉たちの後ろに隠れているような子だった。明子さんは姉が通っていた劇団に入れ子役としての活動を始める。そして8歳の時に大きな転機が訪れる。素朴さが山田洋次監督の目に止まった。映画「遥かなる山の呼び声」で息子役を演じた。

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