- 出演者
- 寺門亜衣子 今田耕司 眞栄田郷敦
今回のゲストは俳優・眞栄田郷敦。兄は俳優・新田真剣佑、父は名優・千葉真一。現在放送中の「大河ドラマ どうする家康」で時代劇初挑戦ながら圧倒的オーラを放つ眞栄田のルーツに迫る。
眞栄田の父・千葉真一の大ファンだという今田。眞栄田は「僕あんまり知ってること少なくて」と父について語った。
オープニング映像。
眞栄田郷敦の父・千葉真一(前田禎穂)のルーツを辿る。曽祖父の猪吉は現在の千葉県富津市で生まれ、前田家に養子に入る前は佐生家の次男だった。佐生家はかつて上総の国を治めていた大名・里見氏の家臣だったとみられる名門で、裕福な家系だった。猪吉の子息で郷敦の祖父の七之助は18歳で海軍に志願。持ち前の運動能力を生かしパイロットとして活躍した。七之助は初代久留米藩主・有馬豊氏の末裔・田中春子と結婚。命がけのテスト飛行で七之助は多額の報酬を手にし、お手伝いさんもいるほどの裕福な生活を送っていた。昭和14年、長男・禎穂が誕生した。
眞栄田の父方のルーツが里見氏の家臣・佐生家だったとわかり、今田は「お父さん、里見八犬伝出てるよね?やばっ」とコメントした。
禎穂の誕生から2年後に太平洋戦争が勃発。当時40歳の七之助はゼロ戦のテスト飛行を続けていたが、戦況が悪くなると七之助が開発に携わった戦闘機は特攻に使用されていった。昭和20年、終戦を迎え、豊かだった前田家の暮らしは一変し貧しいものに変わった。禎穂は両親の運動神経を受け継ぎ活発な子供時代を過ごす。昭和27年のヘルシンキ五輪で日本が体操で金メダルを獲得したことに感化された禎穂は木更津高等学校の体操部へ入部。日本体育大学へと進学しオリンピックを目指したが、負傷により夢を諦めざるをえない状況となった。失意の日々を送っていたが、思い立って応募した東映のオーディションで26000人中トップ合格を果たす。昭和35年、禎穂は千葉真一として俳優デビュー。持ち前の身体能力でスタントマンを使わない撮影に挑み、すぐにアクションスターへと駆け上がった。昭和45年には俳優を養成するジャパン・アクション・クラブを設立。平成4年にはハリウッド映画「エイセス/大空の誓い」に出演した。
父の千葉真一について眞栄田は「やるって決めたらとことんやる人だった」と振り返った。
郷敦の母・本田玉美はかつては京都で舞妓をしていた。曾祖母の本田タマは福井県小浜市の置屋で修行を積み、昭和の始めに京都へ行き、芸鼓として厳しい稽古に耐え自分のお茶屋を開く。昭和6年、タマと実業家の徳三郎の間に郷敦の祖父・公一郎が誕生。昭和41年に公一郎は結婚し郷敦の母・玉美が生まれた。祖母に可愛がられていた玉美は高校1年の時、「舞妓になれ」と勧められる。悩んだ末、玉美はタマの期待に答えたいと舞妓の道へ進むことを決意。厳しい修行を耐え抜きデビューした玉美の元にはすぐに多くの指名が入った。平成8年、玉美は舞妓時代に知り合っていた禎穂と結婚。当時、禎穂が拠点としていたアメリカへと移住し平成12年次男の郷敦が誕生した。しかし、禎穂はアメリカの仕事が減り日本で企画した映画や事業も失敗。玉美は子どもを連れ京都に帰郷する。朝から晩までパートに明け暮れ、必死に働いた。郷敦は中学の時サックスに目覚め高校でプロを目指していたが、東京藝術大学に不合格となり夢を諦めた。禎穂から半ば強引に俳優の道を勧められ、平成31年、映画で俳優デビューを果たす。
眞栄田は「僕も母親から礼儀だったりだとかマナーだったりとかはめちゃめちゃ言われましたね」と語った。
郷敦が俳優になると禎穂は自宅に呼び寄せ自ら指導を始めた。息子との時間を大切に過ごし、親子共演も目指していた禎穂だったが、令和3年に死去。新型コロナウイルスが原因だった。防護服に身を包んだ郷敦は最後、父の亡骸と二人きりの時間を過ごしたという。
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