- 出演者
- 寺門亜衣子 今田耕司 草刈正雄
オープニング映像。
今回は草刈正雄さん。アメリカ兵だった父やその家族のことはわからないまま母・スエ子さんと生きてきたという。スエ子さんは多くを語らないまま2010年に死去。草刈さんは葛藤の末父を知ろうと決心したそう。スエ子さんからは父は朝鮮戦争で死んだと聞かされており、名前はロバート・トーラ。写真は全部焼いたので無いと言われたという。番組は草刈さんにかわりアメリカで取材。朝鮮戦争から生還し生きていたという衝撃の事実が判明し、親戚たちを探し当てたという。
ゲストの草刈正雄さんが登場。今回はスケールの大きそうなファミリーヒストリーになりそうですと今田がコメント。
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草刈家の戸籍では本籍は福岡県行橋市。昭和27年正雄は婚外子として生まれた。母方の親戚へ連絡したが誰もが父については名前すら知らないという。正雄が母から聞いた情報では、名前はロバート・トーラ。スペルは不明で、朝鮮戦争で戦死しており祖父に当たる人は郵便局の偉い人だったと聞かされた記憶があるという。これらの情報を基にニューヨークで取材を開始。アメリカ取材担当の竹内さんは「どこの軍か分からずどこにいたかも分からないとなると、まずはどこを見ていいかわからない」また「スペルが分からないと調べるのは本当に難しい」と語る。初動調査にはアーカイブスドットコムを使用。法的に閲覧可能な公的機関の個人情報が集約されているサイトだが、「Tola」のスペルひとつでも2024件がヒット。この中のひとり、1922年生まれのロバート・W・トーラは朝鮮戦争に従軍している可能性があったが、父の職業が郵便局員ではなかったため除外。想定スペルは全12パターン。サイト上では8827件が該当した。この中に正雄の父はいるのか?
母の故郷は福岡県行橋市。行橋市歴史資料館の幕末の資料に先祖の名前を見つけた。古い地図に利久蔵さんと松蔵さんの家が記されている。田んぼの一部を所有していただろう。街は潤っていた。草刈家は米や菜種を生産。明治8年、正雄の曽祖父・高蔵が誕生。高蔵はある商売をはじめた。天ぷらかまぼこ製造業だったという。大正4年に急死。生活苦に陥る。昭和7年にスエ子が誕生。正雄の母だ。幼いスエ子は貧しかった。両親は離婚し、奉公に出された。必死に働き、孤独に耐えた。路線バスの車掌さんになった。女性に人気の職業だった。草刈正雄さんははじめて知ったという。わくわくどきどきだという。
取材班は行き詰まっていた。父の名は、ロバート・トーラーかもしれないと考えた。全米が調査対象になった。日本では過去のインタビュー記事を洗い直した。出身地はノースカロライナという記事を発見した。朝鮮戦争で戦死し、郵便局員だった人を探した。
去年10月に事態が動いた。ロバート・H・トーラーに関する手紙を受け取ったと返事が来た。グリーンズボロを訪ねた。ジェイからハムさんは陸軍士官。母から、あなたには日本にいとこがいると聞いていたという。ジェイさんに家系図を書いてもらった。祖父はゼブロンで郵便局員。母の弟がロバート・ハンターで「アンクルボブ」と呼ばれていた。ロバートは亡っている。ジェイさんにDNA検査への協力を求めた。4週間後、ジェイさんの元に結果が届いた。97パーセントいとこだという。正雄の父方の親族が見つかった。ジェイさんの母の元へ案内してくれた。ジャニタ・カラハムさん。正雄の叔母だ。弟の写真を見せてくれた。正雄さんの父だという。日本で働いていたとのこと。ロバート・H・トーラーさんだという。
草刈正雄のおばにあたるジャニタ・カラハムさんはある写真を指し「これが私の弟のロバート・ハンター・トーラー」と紹介。日本の空軍に所属していたという。これが正雄さんの父だという。20代の頃の写真だった。正雄が元気であってうれしい、この話は私だけが知っていて、誰にも話せずにいたという。でも年をとったから息子にだけは話したという。正雄の存在を家族のだれにも知らせないまま死ぬわけにはいかなかったと語った。父親が判明したことを受けて、草刈正雄は「似てますかね」とコメント。今田耕司は優しい目の感じが似ているなどと話した。
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草刈正雄の父・ロバートはどんな人物だったのか。ルーツをたどるためにノースカロライナ州のター・ヒールに向かった。地元の墓地に建つトーラー家の先祖の慰霊碑がある。正雄の曽祖父には9人の兄がおり、皆が軍人となった。代々軍人が多いトーラー家。その中で珍しく郵便局員になったのが祖父のゼブロン・トーラーだった。優しい人だったが、50代になるとペラグラという病に襲われる。消化器官がただれ、脳の機能不全に陥ることもある病気だった。そして、祖父は痛みと絶望に耐え切れず自ら命を絶った。
正雄の父であるゼブロン・トーラーが生まれたのは1930年のことで、今もロバートが過ごした家は残っている。いとこに当たるダイアナさんとエセルさんは当時について、収入は途絶え職ももなかった、学校の先生に部屋を貸して収入を得ていたと振り返った。ロバートはチャーミングな姿で知られ、茶目っ気も持つ存在だったという。家計で苦労する母を助けるため早くから自立し、18歳でアメリカ空軍へ入隊した。193cmという身長で築城空軍基地の郵便部隊に配属されていたが、父が郵便配達員であったことの名残と見られる。朝鮮戦争では福岡から韓国の金浦空軍基地へ派遣され、弾の飛び交う最前線に対して家族の手紙を届ける任務を受けていたものと見られる第24分遣隊は1951年に帰還したと記されていて、その後も郵便の仕分けに着手していたものと見られる。そして、帰還した築城でロバートは1人の女性と出会った。
福岡・築上町の航空自衛隊築城基地は1957年まではアメリカ空軍のものだった。当時をしる女性に話を伺うと、アメリカ兵を相手に酒場を経営していたという女性に話を伺うと、当たり一面に米軍の兵士のための酒場が並んでいたという。母・スエ子はバスの車掌であり、行橋と築城を結ぶ路線を担当していたが、ロバートとの出会いは道をロバートがスエ子に譲ったことが始まりだという。任期を終えた事で除隊となったものの、再入隊という形となった。その後の定期移動で極東空軍羽田基地へ移るとスエ子も仕事をやめて都内へ向かった。新しい命を授かったのもこの頃と見られ、いつかはアメリカに向かう予定だったという。
行橋市で消息を伝え聞いている人が見つかった。綿井さんの姉はスエ子の同級生で、築城基地の近くの青果店へ嫁いでいた。スエ子さんは偶然お客として買いに来てお互いびっくりしたという。綿井さんの姉は、東京から戻ったばかりのスエ子をそのまま家に上げた。スエ子は、旦那がアメリカに帰っているから行くところがないという事を聞き、産むまで2階の一部屋にいさせたという。こうして、昭和27年9月5日に正雄を出産した。一方父であるロバートはどこに行ったのか、アメリカの親戚に尋ねると、職務の都合で帰国したロバート。姉のジャニタさんが当時のことについて、日本での顛末を誰にも言わなかったという。だが帰国後、ロバートは困惑し神経衰弱になっていたという。結局ロバートは、覚悟を持てぬまま姉の進めに従い西ドイツに旅立った。その頃、渡米も意識していたスエ子は、ロバートから聞いていた住所に手紙を出した。受け取ったのは、ロバートの母と姉たちだった。このとき、ロバートはすでに西ドイツで従軍。母と2人の姉は生活も苦しく、為す術がなかった。西ドイツ行きを促さなければ、親子3人の距離は再び近づいたかもしれないと、ジャニタさんは後悔し続けてきたという。スエ子に返事を書いたのは、姉のマーガレット。僅かなお金を同封し、事実を伝えた。受け取ったスエ子は全てを悟り、正雄と2人で生きる覚悟を決めたという。当時、外国人の親を持つ子どもやその家族には偏見があり、いとこの1人は表立って援助できなかったと証言。こうしてスエ子は故郷を離れ、しがらみのない小倉へ向かった。
草刈正雄が母と間借りしていた家がいまでも残っていた。大家の長女野村さんは正雄の幼馴染である。母はなれない町で日中は卸売業者の倉庫で値札つけ、残りの時間で家政婦の仕事を掛け持ちしていた。友達と学校をサボって映画館を無断で入った時は自分だけ捕まった時には親には辞めてくださいと言ったという。
中学生の正雄は堀切さんと新聞配達を始めた。2人は片親で親孝行しか頭になく、卒業後には本の訪問販売やスナックで学費を稼ぎ、定時制高校に通った。17歳のときに博多や東京のモデルクラブの目に止まりお金のため業界に入った。有名にしたのは大手化粧品会社のCMである。当時の人気モデル団時朗さんの弟分としてデビューした。日本人離れした顔立ちも受け売れっ子になった。俳優にも挑戦し華のある演技と茶目っ気で人気となった。スエ子は少しずつロバートについて話すようになったが決して悪いようには言わなかった。平成22年、脳梗塞でこの世を去った。
アメリカノースカロライナ州にあるソールズベリー国立墓地に草刈の父ロバート・トーラーが眠っている。ロバート・トーラーは1953年アメリカ陸軍の一員として西ドイツに渡りその後ヘルガと結婚し除隊、商売を始めた。婦人服の販売を始めてうまくいっていたが手を広げすぎて失敗、別の商売を始めたが再起叶わず2013年にがんで83歳で亡くなった。最後まで日本での出来事は口にしなかったという。秘密を知るロバートの姉のジャニタさんは草刈さんに手紙を託した。
叔母のジャニタさんが草刈さんに託した手紙を紹介した。ジャニタさんは「70年間あなたのことをずっと思い続け心配してきた。あなたのお母様がくれた手紙には戦後間もない日本でアメリカ人との間に生まれたあなたを育てていくことへの不安が綴られていました。この出来事を私はずっと心の奥にしまっていました」と書かれていた。ジャニタさんに家の廊下には親族の写真が飾られた壁がありここに草刈さんの家族の写真を飾られたら嬉しい、会いに来て下さいと書かれ草刈さんは受け取り「子どもの頃からもやもやしていたものが全部明らかになりこんな幸せはない」と語った。
今回日本の親戚が見つかったことを喜ばしく思っているトーラー家、草刈さんのいとこジェイさんは家に飾っているインターネットで探した草刈さんと母親の写真を飾っていると紹介。97歳の叔母ジャニタさんは初めてみた写真に「私にそっくり」などと話し喜んでいた。
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草刈さんは父の故郷に行くことを決断し7月末に急遽渡米した。迷っていたと割り切れない気持ちを抱えていたことなどを話ししこりが消えたわけではないが「手紙の文章を読むと誰でもそういう気持ちになるんじゃないでしょうかね。しみました」などと話した。ジャニタさんに会い時代と運命に翻弄された家族が海を超えて70年ぶりに繋がった。
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