行橋市で消息を伝え聞いている人が見つかった。綿井さんの姉はスエ子の同級生で、築城基地の近くの青果店へ嫁いでいた。スエ子さんは偶然お客として買いに来てお互いびっくりしたという。綿井さんの姉は、東京から戻ったばかりのスエ子をそのまま家に上げた。スエ子は、旦那がアメリカに帰っているから行くところがないという事を聞き、産むまで2階の一部屋にいさせたという。こうして、昭和27年9月5日に正雄を出産した。一方父であるロバートはどこに行ったのか、アメリカの親戚に尋ねると、職務の都合で帰国したロバート。姉のジャニタさんが当時のことについて、日本での顛末を誰にも言わなかったという。だが帰国後、ロバートは困惑し神経衰弱になっていたという。結局ロバートは、覚悟を持てぬまま姉の進めに従い西ドイツに旅立った。その頃、渡米も意識していたスエ子は、ロバートから聞いていた住所に手紙を出した。受け取ったのは、ロバートの母と姉たちだった。このとき、ロバートはすでに西ドイツで従軍。母と2人の姉は生活も苦しく、為す術がなかった。西ドイツ行きを促さなければ、親子3人の距離は再び近づいたかもしれないと、ジャニタさんは後悔し続けてきたという。スエ子に返事を書いたのは、姉のマーガレット。僅かなお金を同封し、事実を伝えた。受け取ったスエ子は全てを悟り、正雄と2人で生きる覚悟を決めたという。当時、外国人の親を持つ子どもやその家族には偏見があり、いとこの1人は表立って援助できなかったと証言。こうしてスエ子は故郷を離れ、しがらみのない小倉へ向かった。