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「宮城県警」 のテレビ露出情報

東日本大震災当時、宮城県警本部長だった竹内直人さん。戦後最大の未曾有の地震が発生したあの日、竹内さんのいた県警の庁舎も激しい揺れに襲われた。午後2時49分に大津波警報が発令。午後3時15分には気仙沼市に津波が到達。午後3時半には県庁で一回目の災害対策本部会議が開かれた。県警のトップとして陣頭指揮をとった竹内さん。惨状が報告される中、気仙沼が火の海になったという知らせに一番驚愕したという。県警には通報が相次ぎ、現場の警察官からの無縁情報も錯綜した。当時の様子が会議の議事録からみえてくる。確認が追いつかない情報、警察無線もなかなか通じないなど、そのために誤報もあったという。警察署も被災し現場が混乱を極める中で、徐々に被害が明らかになっていく。
多くの犠牲者が想定される中で竹内さんは、自らの手帳に1万人地獄 これから本番 現場はもっと辛いと書き残していた。地震から3週間後に石巻市を視察。この日、行方不明になっていた警察官が遺体で発見された。県内では14人の警察官が避難誘導中に津波に巻き込まれるなどし殉職。そのうち二人が行方不明のまま。気仙沼警察署の署長だった佐藤宏樹さん。駐在所に勤務していた二人の部下を失った。あの日署員に住民への避難誘導した後に高台に逃げるよう指示した。あの日佐藤さんには署長としての苦渋の決断があったという。
警察署は市街地を流れる大川から、300mほどの場所にあった。津波で拳銃や無線機が流出するのを恐れた佐藤さんは、署員9人に決死隊として重要装備品を庁舎3階に運ぶよう指示した。迫りくる津波と火災に決死隊は逃げ遅れた住民20人を救助し、3階へ。幸いにも津波は庁舎一階の天井付近に止まった。もし津波が三階まできていたら全滅していたかもしれないと、その指示は本当に正しかったのかと未だに夢に見るほど、その時の判断が正しかったかと考えてしまうという。よりまともなものはなにかと考えながら指揮指導してきたと語る。沿岸部では懸命な救助活動が行われていた。震災当時の県警機動隊特別救助班長の永野裕二さんはヘリコプターで孤立した人の救助にあたった。永野さんには当時の活動で忘れない出来事がある。震災当時の午後5時45分頃に歩道橋で約50名の要救助者を発見。歩道橋の下は水と瓦礫に覆われて火災が発生していた。ずぶ濡れの女性や赤ちゃんなどを釣り上げて、救助できるのはあと一人という状態だった。女子中学生を助けようとしたが、先におじいさんを助けてほしいと言われどっちを救助するか迷ったという。すると女子中学生が後でいいと言うのでおじいさんを先に助けたという。その後、歩道橋に取り残されていた人たちは地元の消防などに助けられたという。地震発生から11日間で全国からの応援を含めた警察のヘリで262人を救助した。しかし自身で救助要請を出せない人を助けられず、全員を救助できなかったことに悔いが残ると答えた。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年3月8日放送 4:50 - 5:20 テレビ朝日
テレメンタリー2025テレメンタリー2025
東日本大震災当時、宮城県警本部長だった竹内直人さん。戦後最大の未曾有の地震が発生したあの日、竹内さんのいた県警の庁舎も激しい揺れに襲われた。午後2時49分に大津波警報が発令。午後3時15分には気仙沼市に津波が到達。午後3時半には県庁で一回目の災害対策本部会議が開かれた。県警のトップとして陣頭指揮をとった竹内さん。惨状が報告される中、気仙沼が火の海になったとい[…続きを読む]

2024年4月23日放送 13:05 - 13:55 NHK総合
列島ニュース(富山局 昼のニュース)
富山県警本部で行われた講演会は、能登半島地震を受けて、きのう開かれたもので、東日本大震災の際、宮城県警本部長を務めていた竹内直人さんが当時の体験や教訓などを語った。竹内さんは、大震災の発災直後には、真偽不明な通報が次々と寄せられ、事実関係が確認できないまま、自治体などに漏れ伝わり、誤った情報が広まったなどとして、情報の収集や管理能力を高めておく必要があるなど[…続きを読む]

2024年3月11日放送 13:50 - 14:50 フジテレビ
FNN特別番組(FNN特別番組)
2011年3月11日、東日本大震災が発生。揺れの長さは180秒も続いた。震度6強の揺れを観測した仙台空港では子どもを守る母親の姿が。津波が押し寄せた気仙沼市鹿折地区では火災旋風が発生し、町を焼失させた。

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