宮沢賢治の遺品の手帳には岩手が抱えていた問題、冷夏の記述がある。太平洋から吹き付けるやませの影響で、夏でも最高気温が20℃を下回り、今でも稲が育たなくなることがある。凶作地の農村では餓死者が出た他、人身売買を目的とした誘拐が横行したと文献に記されている。宮沢は30歳の時、教師をやめて農業の世界に飛び込んだ。寒冷地でも育つ野菜、花を栽培して売り、土壌学を学んでいたことから、肥料について農家に指導した。だが、農家にとっては初期投資が必要だった上、暴風雨が稲を襲った。そして、宮沢は最愛の妹と同じ病気、結核を患う。病状が悪化するなか、自らの願いなどを綴ったのが「雨ニモマケズ」だった。