大正14年、現在のJRグループの前身・鉄道省に入省した島秀雄。29歳の若さで蒸気機関車の設計主任となった秀雄が昭和10年に手掛けたのがD51形蒸気機関車。最高時速は85キロ。その後、D51は1115両が製造され、SLの傑作として今なお語り継がれている。この頃、輸送量は増え続ける一方。いずれ限界に達するのは明らかだった。そこで新たな路線をつくる計画が立ち上がる。それが東京~下関間新幹線計画。俗に言う弾丸列車計画。最高時速150キロ以上という当時としては極めて高速の列車を走らせ、18時間半かかっていた東京~下関間を9時間で結ぼうという計画。この計画の責任者だったのが秀雄の父・安次郎だった。親子二代の夢を乗せた計画は実現に向けて全速力で走り続けていたが、太平洋戦争が勃発し、弾丸列車計画は中止となった。