2025年4月24日放送 20:15 - 20:42 NHK総合

熱談プレイバック
新幹線誕生!D51から超特急へ!

出演者
神田阿久鯉 
(オープニング)
オープニング

講談師・神田阿久鯉が、昭和の時代に夢の超特急と謳われた東海道新幹線を手掛けた技術者の話を語る。

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新幹線 誕生物語
幻の新幹線 弾丸列車

大正14年、現在のJRグループの前身・鉄道省に入省した島秀雄。29歳の若さで蒸気機関車の設計主任となった秀雄が昭和10年に手掛けたのがD51形蒸気機関車。最高時速は85キロ。その後、D51は1115両が製造され、SLの傑作として今なお語り継がれている。この頃、輸送量は増え続ける一方。いずれ限界に達するのは明らかだった。そこで新たな路線をつくる計画が立ち上がる。それが東京~下関間新幹線計画。俗に言う弾丸列車計画。最高時速150キロ以上という当時としては極めて高速の列車を走らせ、18時間半かかっていた東京~下関間を9時間で結ぼうという計画。この計画の責任者だったのが秀雄の父・安次郎だった。親子二代の夢を乗せた計画は実現に向けて全速力で走り続けていたが、太平洋戦争が勃発し、弾丸列車計画は中止となった。

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長距離高速電車への挑戦!

昭和23年、戦後の混乱がまだまだ続く中、東海道線の東京~沼津間に新型列車を走らせる計画が立ち上がる。その距離約120km。この時、島秀雄は蒸気機関車ではなく電車を提案。こうして誕生したのが日本で初めての長距離電車・湘南電車こと80系電車。これにより、秀雄は電車の可能性を確信する。しかしこの1年後、修理中の架線がパンタグラフに巻き付き、電車が燃え上がってしまう大事故が発生。死者は106人に及んだ。秀雄もこの電車の設計に関わっていた。一部が木製であったり車両をつなぐ通路がないなど安全性に問題はあった。秀雄は古い車両の改善を徹底的に押し進め、責任を取る形で長年勤めた国鉄を辞職した。それから4年の月日が経ち、大手製造会社で第二の人生を送っていた秀雄の元に国鉄から連絡が入る。呼び出したのは十河信二。この程、国鉄の総裁に就任した人物。しかし、秀雄は断った。それでも十河は諦めず、幾度も幾度も説得を試みた。秀雄は父と描いていた夢を思い出し、国鉄に戻ることを決めた。

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夢の超特急

昭和30年代に入ると、すでに東海道線の輸送力は限界に達しつつあった。そこで国鉄総裁の十河信二は輸送力を強化するために東京~大阪間に新幹線を通し、そこに世界最速の電車を走らせようと考える。そこで島秀雄が注目したのが小田急ロマンスカー 3000形SE車。実はこの車両、国鉄と私鉄の技術者が共同で開発したもので、秀雄も関わっていた。秀雄は東海道本線の線路を使った3000形SE車のスピードテストを計画。最高時速145キロを記録した。そして昭和33年、秀雄がさらなる高速を目指して開発した特急こだまがデビュー。東京~大阪間を6時間50分で結んだ。こだまを新幹線開発に向けての重要なステップと位置づけていた秀雄はデータを取るためにスピードテストを実施。結果は最高時速163キロ。新幹線計画はいよいよ加速していく。

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昭和34年4月20日、弾丸列車計画の中断により放置されていた新丹那トンネルで起工式が行われ、新幹線の建設がスタート。島秀雄はテスト用の車両製造に取り掛かるが、部下たちに「鉄道で最も大切なのは安全だ」などと宣言した。安全面に蛇行動という大きな問題が。脱線事故の原因にもなりかねない。秀雄はこの問題の解決を、かつて海軍で航空機を研究していた松平精に託した。そしてついにテスト用の車両が完成。昭和38年、速度向上試験が行われ、最高時速256キロを記録した。ここからさらに改良が重ねられ、昭和39年10月1日、東海道新幹線は開業の日を迎えた。しかし、この出発式に十河信二と島秀雄の姿はなかった。国会に提出した予算を大幅に超えた責任を取り、2人は晴れ舞台に立つことなく去っていった。

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