昭和23年、戦後の混乱がまだまだ続く中、東海道線の東京~沼津間に新型列車を走らせる計画が立ち上がる。その距離約120km。この時、島秀雄は蒸気機関車ではなく電車を提案。こうして誕生したのが日本で初めての長距離電車・湘南電車こと80系電車。これにより、秀雄は電車の可能性を確信する。しかしこの1年後、修理中の架線がパンタグラフに巻き付き、電車が燃え上がってしまう大事故が発生。死者は106人に及んだ。秀雄もこの電車の設計に関わっていた。一部が木製であったり車両をつなぐ通路がないなど安全性に問題はあった。秀雄は古い車両の改善を徹底的に押し進め、責任を取る形で長年勤めた国鉄を辞職した。それから4年の月日が経ち、大手製造会社で第二の人生を送っていた秀雄の元に国鉄から連絡が入る。呼び出したのは十河信二。この程、国鉄の総裁に就任した人物。しかし、秀雄は断った。それでも十河は諦めず、幾度も幾度も説得を試みた。秀雄は父と描いていた夢を思い出し、国鉄に戻ることを決めた。