冬至堅太郎は32歳からの10年間をスガモプリズンで過ごした。冬至は戦犯として囚われ、その日々を日記に記していた。冬至堅太郎を父に持つ冬至克也は、父・堅太郎はどの様な気持ちで過ごしていたのか、そして真実を記しておきたいと日記を残したのだなどと告げた。大正時代に創業した文具店「冬至商店」の一人っ子として誕生した堅太郎は東京商科大学(現 一橋大学)に進学し、剣道部主将を務めた。卒業した年に軍に召集された堅太郎は1939年に中国へ出征した。西部郡司令部に臨時召集されたのは1944年であり主計中尉としてであった。1945年6月19日、福岡を米軍機が襲い、福岡大空襲となり、堅太郎の母・ウタが亡くなった。西部軍の捕虜収容所には墜落したB29の搭乗員たちが集められ、堅太郎は搭乗員たちの処刑の執行人を志願し、刀で搭乗員の首をはねた。