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「廣井脩」 のテレビ露出情報

最初の揺れからおよそ1時間後、凌雲閣から発生した浅草の火災はますます火勢を強めていた。しかし、800mほど離れた下谷では人々が未だ路上に留まっていた。人々は皆一様に「火災が近づいたら逃げればいい」と楽観視しており、中には避難せずに寿司を食べに出かけた人もいたという。ラジオ放送も始まっていなかった当時、情報を得ることができなかった人々は火災は目の前でしか起こっていないと思いこんでいたが、事実は異なっていた。火災は人々の背後、蔵前や九段下、有楽町などで同時多発的に発生していたのである。そして、そのいずれの火災現場でも人々は避難しようとはしなかった。午後2時半頃になると、広がった火災が警視庁を炎上させたことで帝都の警察機能は麻痺。火勢が強まる中で消防隊は懸命な消火活動を行ったが、揺れによって水道管が破損したために消火栓が使えず、池の水や皇居の堀の水を利用する他なかった。巨大な炎は、近代都市・東京の脆弱さを浮き彫りにしたのである。
東京大学の地震学者・今村明恒はこうした東京の脆弱性を地震発生の18年前から指摘していた。今村は1905年に「50年以内に東京で大地震が起こる可能性があり、そうなれば火災で大きな犠牲が出る」とする論文を発表したが、これが元で人々が東京から逃げ出す騒ぎを引き起こしてしまう。事態は今村の上司であった大森房吉が「根拠のない浮説」と断定する事で落ち着いたが、今村の仮説は関東大震災において的中してしまう。地震発生と同時に東京では134ヶ所で火災が発生し、その出火点から延焼が拡大。さらに、揺れから数時間後にも各地で新たな火の手が上がり始めていた。

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