豊臣秀吉の甥だった秀次は後継者として注目されていたが、1595年7月に金剛峯寺で自刃した。太閤記には、謀反を企てたためだと記されている。だが、矢部健太郎教授によると、秀吉と秀次の関係性は不仲ではなかったといい、秀吉は大和の国の領主に秀次の息子(2歳)を抜擢したほどだった。「医学天正記」を紐解くと、95年は後陽成天皇が体調をよく崩し、曲直瀬玄朔が治療にあたっていた。また、秀次も喘息の発作を起こしていたという。女官たちの日記によると、玄朔は天皇に薬を処方し、秀次を治療。秀吉は天皇の命の危険をさらしたと、秀次に高野山での謹慎処分を言い渡した。矢部教授によると、秀次は俗世から隔絶されたことに悲嘆し、切腹したのかもしれないという。
