- 出演者
- 佐々木蔵之介
オープニング映像。
- キーワード
- 豊臣秀吉
京都御苑北側の発掘調査では、戦国時代はじめの都の様子が伺える発見が相次いでいる。発掘現場からは都市部にはいないニホンオオカミの頭蓋骨が見つかっている。応仁の乱のあと死体で埋まる都に人間を食べに降りてきたとみられる。都は荒廃し、16世紀になると北に上京、南に下京にまとまった。京都に再び活気を取り戻したのは豊臣秀吉だった。49歳のときに武士として初めて関白に任じられた秀吉は支配を全国に広げたが、出自が低かったためその権威を認めない大名もいた。大名たちから軽んじられた秀吉は、天皇や公家たちが住む京都に目をつけた。
聚楽第の発掘調査では、巨大な石垣や1000点以上の金箔瓦が見つかった。初めて城に金箔瓦を用いた信長が紋様の凹んだ面に金箔を貼っていたのに対し、聚楽第では出っ張った面に金箔が貼られていた。秀吉は、安土城を超える金の輝きを生み出そうとしていた。聚楽第は東西380m南北600mの中に御殿が立ち並ぶ広大な城で、5層の天守閣の威容は街のどこからでも見ることができた。巨大な城を建てることで、秀吉は権威を知らしめようとした。
御所参内・聚楽第行幸図屏風には、秀吉が聚楽第に天皇を招く行幸の光景が描かれていた。歴史学者の矢部さんは、秀吉の後ろに付き従う人物は大名である可能性がある、具体的には徳川家康や織田信雄あたりと指摘した。秀吉は、公家の装束を大名たちに着させて行列に参加させていた。関白として冠位の頂点に君臨していた秀吉は、天皇を通して大名たちに自らに次ぐ冠位を与えて序列を明らかにしていた。行幸の目的は序列を目に見える形で演出することだった。
京都・北区の住宅街には、高さ5~8mの土塁の跡がある。御土居と呼ばれ、秀吉が4か月で建造したものだった。全長23キロで都を囲っており、外敵から守るだけでなく鴨川の洪水を防ぐ狙いもあった。御土居で囲われたエリアは洛中と呼ばれるようになった。また正方形だった京都の町割に秀吉は碁盤の目を貫く道路を建設し、短冊状に区画を整理。すべてを宅地にすることでより多くの人が住めるようにした。新しい町に暮らす人々には土地や家にかかる費用を免除。大工などが多く集まり、秀吉の時代に京都の人口は倍以上になった。東からの街道沿いには世界最大の木造建築となる大仏殿を建て、中心には高さ19mの大仏が鎮座した。都を訪れる人たちに大仏殿の威容を見せつけた。
京都御苑南東の一角から石垣が見つかった。出土した金箔瓦には五七の桐の紋が施されており、秀吉が建てた城とわかった。秀吉の死の前年に気づいたとされる京都新城で、正確な位置や構造など多くの謎が残されていた。研究者たちが6年におよぶ調査を続け、集められたデータから京都新城が特殊な姿だったことがわかってきた。場所は御所のすぐ隣で、東西400m南北850mの広大な敷地に築かれた。南側の堀は20mと広く城としての機能を備えていた一方で、御所に近い北側は10mと狭く防御性がないことがわかった。
西本願寺飛雲閣は聚楽第の遺構と言われていたが、移築された年代が聚楽第を取り壊した後だったことから現在は京都新城の遺構と推定されている。しょうけんでん西本願寺飛雲閣は聚楽第の遺構と言われていたが、移築された年代が聚楽第を取り壊した後だったことから現在は京都新城の遺構と推定されている。招賢殿の上段の間には障子が用いられ、差し込む光によって座った人に後光が差すように見える仕掛けになっていた。中井均教授は、天皇を迎えることが秀吉の頭の中にあったと話した。京都新城は、幼い秀頼をどう守っていくかという最晩年の秀吉の悩みに対する備えだった。秀吉は、秀頼の行く末を案じたまま62歳で亡くなった。1615年に豊臣家は滅亡し、京都新城も取り壊された。京都に築かれてきた秀吉の栄華の象徴はすべて姿を消したが、時代を超えて受け継がれてきたものもある。三条大橋の欄干には擬宝珠と呼ばれる秀吉の時代の飾りが今も残されている。京の伝統野菜である堀川ごぼうは、聚楽第が取り壊された後使われなくなった堀で育ったことから聚楽ごぼうとも呼ばれている。
エンディング映像。
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