- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
オープニング映像。
文禄の役では、今の佐賀・唐津市には出兵のための前線基地が築かれた。全国各地から30万人の兵士が動員されたという。だが、わずか1年ほどで事実上の撤退に追い込まれた。朝鮮半島に渡った武将のなかで、秀吉が頼りにしていたのが毛利輝元。軍全体の5分の1を率いていたが、持病を悪化させて進軍に支障をきたしたという。以前、曲直瀬玄朔は輝元を治療したことがあり、「医学天正記」に記述がある。内科医の松岡尚則氏はライター症候群を疑う。下痢や血便、関節痛などが主な症状。秀吉は輝元が朝鮮半島で死去したら士気に影響しかねず、毛利軍に憎悪されかねないと、帰国を許したという。凍てつく寒さで、兵士たちは凍傷に苦しめられていた。
「医学天正記」では蒲生氏郷に多くの紙幅が割かれている。症状から、松岡氏は大腸がん、肝臓がんと推察する。
毛利軍にとどまらず、伊達軍も傷病に悩まされたという。兵士たちは灰を温めて布でくるみ、心臓周辺をさすることで低体温症を防いだとされる。また、溶かしたニカワ、しょうが汁を使い、戦国版シップをつくって腰痛の治療に用いたのだとか。
「医学天正記」で扱われている症例で、突出して多いのが「重篤な熱性疾患」、「マラリアなどを含む疾患」。後者は今も全世界で2億人以上が感染し、うち約60万人が亡くなっている。また、藤堂高虎は江戸城の築城時、水に入ったことで体調不良になったという。加藤清正、黒田長政は酒の飲みすぎで曲直瀬玄朔に診てもらったという。関ヶ原の戦いで東軍に寝返った小早川秀秋は19歳の時点でアルコール中毒だった可能性がある。茶々は食欲不振、目眩、気鬱に悩まされていたという。
豊臣秀吉の甥だった秀次は後継者として注目されていたが、1595年7月に金剛峯寺で自刃した。太閤記には、謀反を企てたためだと記されている。だが、矢部健太郎教授によると、秀吉と秀次の関係性は不仲ではなかったといい、秀吉は大和の国の領主に秀次の息子(2歳)を抜擢したほどだった。「医学天正記」を紐解くと、95年は後陽成天皇が体調をよく崩し、曲直瀬玄朔が治療にあたっていた。また、秀次も喘息の発作を起こしていたという。女官たちの日記によると、玄朔は天皇に薬を処方し、秀次を治療。秀吉は天皇の命の危険をさらしたと、秀次に高野山での謹慎処分を言い渡した。矢部教授によると、秀次は俗世から隔絶されたことに悲嘆し、切腹したのかもしれないという。
豊臣秀次の自刃から3年後、秀吉は死去。秀頼は6歳だったため、徳川家康につけいる隙を与えてしまったという。河合氏は「歴史にイフはないですが、秀次の病気がなければ豊臣政権が続いて江戸時代がなかったのかもしれない」と語った。
「歴史探偵」の次回予告。
