和田義治さんは、徐々に体が動かなくなる難病「ALS」を抱え、約140キロを1人で歩いている。和田さんは、一人暮らしをしていて、2年前から、利き手の左手はほとんど動かず、右手も動かなくなり始めている。ALSは、体を動かすための筋肉が痩せ、呼吸をするための筋肉も弱り、人工呼吸器をつけないと死に至ることもある難病だ。10万人に1~3人に発症する難病で、進行を止める治療法は見つかっていない。食事では、柄の部分にバネがついた補助器具を使って、箸を動かしている。濡れた洗濯物が重くて持ち上げられず、去年、乾燥機付きのドラム式洗濯機を購入した。和田さんは、服飾雑貨デザイナーで、26歳で起業し、30年以上、この世界で活躍してきた。14年前、藍染の技に感銘を受け、自ら藍染製品のブランドも立ち上げた。全国の百貨店などで、商品を展開している。自分のブランドを通じて、藍染の魅力を世界中に広げることが夢だという。3年前に診断を受けたが、和田さんは、できる限り店頭に立っている。
和田さんは2年前、東海道五十三次、約490キロの道のりを1人で歩く旅に挑戦した。疲労が溜まってくると、腕が不自由なため、歩く際にバランスをとりにくくなった。箱根越えは、困難を極めたが、夜、ホテルに到着すると、姉から贈り物が届いていた。和田さんは、父を亡くし、母と姉との3人家族で、施設で暮らす母には、病気のことを話していない。「いい旅が続きますように」というメモと、入浴剤や塗り薬などが入っていた。和田さんは、約490キロを1ヶ月かけて歩ききった。姉もそのゴールを見守った。和田さんは、この病気にならなければ、チャレンジはしなかったし、今後の人生の自信になるなどと話した。去年3月には、中山道も踏破した。今度は、日光街道に挑戦することにした。約140キロの一人旅だ。
去年10月、日光街道一人旅の挑戦が始まった。目標は、1日約30キロ。6日間で、日光東照宮を目指す。1年ほど前の東海道五十三次を歩いた時に比べ、できないことが増えていた。ペットボトルのフタは、道具を使わないと開けられず、リュックは、肩を入れてから担がないと、背負うことができない。和田さんは、埼玉県草加市で育ち、日光街道は、幼い頃から現在に至るまで、生活の横にある道で、最も思い入れのある道だという。出発して2日目、和田さんは、花を買って、35年前に他界した父親の墓を訪れた。いじめを受け、不登校になったとき、和田さんは、父から、いじめっ子と喧嘩してこいなどと言われ、立ち向かう大切さを教わったという。ALSとわかり、投げやりになったとき、父のその言葉を思い出したという。和田さんは、父のお墓の前で、涙を流していた。その後、予定通りに歩き、残り2日で、あと45キロの地点まで来た。最終日は、雨だったが、和田さんは、ゴールが雨なら、それは印象深くなっていいなどと話し、日光東照宮に到着した。和田さんは、自分自身を褒めてあげたいなどと話した。
和田さんは2年前、東海道五十三次、約490キロの道のりを1人で歩く旅に挑戦した。疲労が溜まってくると、腕が不自由なため、歩く際にバランスをとりにくくなった。箱根越えは、困難を極めたが、夜、ホテルに到着すると、姉から贈り物が届いていた。和田さんは、父を亡くし、母と姉との3人家族で、施設で暮らす母には、病気のことを話していない。「いい旅が続きますように」というメモと、入浴剤や塗り薬などが入っていた。和田さんは、約490キロを1ヶ月かけて歩ききった。姉もそのゴールを見守った。和田さんは、この病気にならなければ、チャレンジはしなかったし、今後の人生の自信になるなどと話した。去年3月には、中山道も踏破した。今度は、日光街道に挑戦することにした。約140キロの一人旅だ。
去年10月、日光街道一人旅の挑戦が始まった。目標は、1日約30キロ。6日間で、日光東照宮を目指す。1年ほど前の東海道五十三次を歩いた時に比べ、できないことが増えていた。ペットボトルのフタは、道具を使わないと開けられず、リュックは、肩を入れてから担がないと、背負うことができない。和田さんは、埼玉県草加市で育ち、日光街道は、幼い頃から現在に至るまで、生活の横にある道で、最も思い入れのある道だという。出発して2日目、和田さんは、花を買って、35年前に他界した父親の墓を訪れた。いじめを受け、不登校になったとき、和田さんは、父から、いじめっ子と喧嘩してこいなどと言われ、立ち向かう大切さを教わったという。ALSとわかり、投げやりになったとき、父のその言葉を思い出したという。和田さんは、父のお墓の前で、涙を流していた。その後、予定通りに歩き、残り2日で、あと45キロの地点まで来た。最終日は、雨だったが、和田さんは、ゴールが雨なら、それは印象深くなっていいなどと話し、日光東照宮に到着した。和田さんは、自分自身を褒めてあげたいなどと話した。