戦後、沖縄が本土に復帰して今日5月15日で52年。「戦争は勝っても負けても犠牲者が出る」。この言葉は、20万人を超える人たちが命を落とした沖縄戦を生き抜いたある女性の言葉。大湾澄子さん、現在100歳。沖縄戦当時は新米の教師だった。師範学校を卒業後、昭和18年、地元・読谷村にあった国民学校で国語の教師になった。当時は国のために尽くすことなどが示された教育勅語が重んじられ、子どもたちは授業どころではなく飛行場の建設などに借り出されていた。昭和20年3月下旬、米国軍が沖縄本島の西、およそ40キロにある慶良間諸島に上陸した時の様子を、読谷村の自宅近くの海から目にした。その後、米国軍が沖縄本島に迫りくる中、家族や集落の人たちと本島北部に向けて避難を始めた。食べるものはなく木の実や沢の水で飢えをしのいで移動を続けた。そんな中で日米両軍による戦闘、兵隊が戦死している様子を目撃。それを見て、「戦争は勝っても負けても、どちらの国も犠牲者が出るんだと分かった」と語った。その後、家族と米国軍の収容所にたどり着いて、親を亡くした子どもたちの姿を見て再び教壇に立つことを決めた。戦後は県内各地の中学校で国語と家庭科の担当をしながら、沖縄戦の体験者として「物事は対話で解決する、そして二度と教え子を戦場に送らない」という思いを抱きながら、およそ40年間教師生活を送った。