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「旧井上房一郎低」 のテレビ露出情報

終戦からわずか三ヶ月後の1945年11月に、音楽で街を復興させようと高崎市民オーケストラが誕生した群馬交響楽団の前身。しかし演奏会だけでは安定した収入が得られず苦労の連続だったがそこで移動音楽教室を始めた。重い楽器を抱えながら汽車や荷台にのって県外の学校や施設で演奏して回った。彼らをモデルにした映画「ここに泉あり」が大ヒットすると、本格的な音楽ホール建設の機運が高まった。人口数十万人の地方都市で夢を叶えるの夢のまた夢で、一人の男が立ち上がった。市民オーケストラの設立社の一人で実業家の井上房一郎は、全国の都道府県に少なくとも1つのフィルハーモニーと1つの音楽ホールをと答え、アント二ン・レーモンドに白羽の矢が立った。チェコ出身のアントニン・レーモンドは初めて来日したのは1919年。師匠のフランク・ロイド・ライトともに帝国ホテル建設のために訪れた。その後、日本で暮らしながら新しい建築の形を模索し続けた。初期の傑作が東京女子大学礼拝堂。軽井沢に協会があり、最高傑作が群馬音楽センター。旧井上房一郎邸はあえて天井ははらず構造むき出しの空間がそのまま広がっている。そのモデルはレーモンドの自宅だった。芯外しは柱に対して建具の一部をずらすことで構造体から建物が自由になり開口部の障子やガラス戸を開け放ち室内と庭を一体化することができる。井上は心底レーモンド建築に惚れ込んでいた。
1番気持ちが良い場所はパティオ。レーモンド邸には藤棚になっていたこのスペースで夫妻はいつも食事をしていたという。井上がアントニン・レーモンドに音楽ホールの設計を依頼したのは1955年。それが苦難の始まりだった。群馬音楽センターは、白いザリガニのような奇妙な形だがはじめからそうではない。当初の構想は音楽のみに特化したコンサートホールでレーモンドは中央のステージを設けた折板構造の円形ホールを提案した。しかし井上は新たな条件に歌舞伎をなどの演劇公演が可能であることなどと答えたがかなりの難問だったという。第2案は様々な舞台装置を収納できるフライタワーを備えたもの。しかし建設予定地が高崎城址に決まるとレイモンド自らこれを却下。巨大なタワーが目立ち、石垣や緑の空間を台無しにしてしまうからだという。たどりついたのは、奇妙なザリガニ。
住所: 千葉県我孫子市相島新田1

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