2023年7月15日放送 22:30 - 23:00 テレビ東京

新美の巨人たち
群馬音楽センター×内田有紀

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(オープニング)
今回は…
オープニング

オープニング映像。

新美の巨人たち
“あなたの街の名建築”高崎・城址公園の中に

高崎駅から徒歩15分の場所にあるのは江戸時代に徳川家康の名をうけた井伊直政によって築城された高崎城。その城跡の一角に群馬音楽センターがある。堂々たる構えで幅58.4mで高さ17mほどで青いスチール冊子にはめられたガラスが壁一面を覆っている。カーテンウォールというもので、側面にまわれば、ギザギザの壁面が。地肌むき出しのコンクリートの壁で板を折り曲げたようなV字にすることで建物を頑丈にする折半構造。独特な造形は。構造体そのままの姿で曲線のないキリッとしたフォルムの厳格さ、頑固さがある。その中に入ると一階ロビーで目を見張るのは、左右にある2つの大きな階段。素材がコンクリートがダイナミックにうねりのぼっていく。響き合うギザギザの線に丸い穴を組み合わせたデザイン。これはコンクリートの重量を減らす意味がある。手すりは美しい曲線を強調するように黒光りするテラゾーの上品な仕上げ。驚くことにこの階段には柱がない。床面と2階フロアと2点だけで支えている。

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アントニン・レーモンド井伊直政群馬音楽センター高崎城址高崎市(群馬)高崎駅

2階の螺旋階段を上がれば広々とした明るい空間が。巨大なガラスの壁が織りなす大パノラマとなっている。ホール側の壁面を飾るのはフレスコ画。タイトルは「リズム」。下絵はアントニン・レーモンドが行い、地元の画家の石澤の久夫が中心になって製作した。その劇場の中を紹介。大空間の輪郭に沿って光の筋が稲妻のように走っている。鋭角に尖ったむき出しのコンクリートにダワンベニアの反射板など、特別な装飾は一切ない。連続する光のアーチの柵にゆうゆうたる舞台が。なだらかな傾斜にそって客席が並び、一階席と2階席の区別がない。

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アントニン・レーモンドリズム石澤久夫群馬交響楽団群馬音楽センター高崎市(群馬)

終戦からわずか三ヶ月後の1945年11月に、音楽で街を復興させようと高崎市民オーケストラが誕生した群馬交響楽団の前身。しかし演奏会だけでは安定した収入が得られず苦労の連続だったがそこで移動音楽教室を始めた。重い楽器を抱えながら汽車や荷台にのって県外の学校や施設で演奏して回った。彼らをモデルにした映画「ここに泉あり」が大ヒットすると、本格的な音楽ホール建設の機運が高まった。人口数十万人の地方都市で夢を叶えるの夢のまた夢で、一人の男が立ち上がった。市民オーケストラの設立社の一人で実業家の井上房一郎は、全国の都道府県に少なくとも1つのフィルハーモニーと1つの音楽ホールをと答え、アント二ン・レーモンドに白羽の矢が立った。チェコ出身のアントニン・レーモンドは初めて来日したのは1919年。師匠のフランク・ロイド・ライトともに帝国ホテル建設のために訪れた。その後、日本で暮らしながら新しい建築の形を模索し続けた。初期の傑作が東京女子大学礼拝堂。軽井沢に協会があり、最高傑作が群馬音楽センター。旧井上房一郎邸はあえて天井ははらず構造むき出しの空間がそのまま広がっている。そのモデルはレーモンドの自宅だった。芯外しは柱に対して建具の一部をずらすことで構造体から建物が自由になり開口部の障子やガラス戸を開け放ち室内と庭を一体化することができる。井上は心底レーモンド建築に惚れ込んでいた。

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ここに泉ありアントニン・レーモンドフランク・ロイド・ライトリズム井上房一郎旧井上家住宅東京女子大学礼拝堂石澤久夫群馬交響楽団群馬音楽センター聖パウロ教会高崎市(群馬)

1番気持ちが良い場所はパティオ。レーモンド邸には藤棚になっていたこのスペースで夫妻はいつも食事をしていたという。井上がアントニン・レーモンドに音楽ホールの設計を依頼したのは1955年。それが苦難の始まりだった。群馬音楽センターは、白いザリガニのような奇妙な形だがはじめからそうではない。当初の構想は音楽のみに特化したコンサートホールでレーモンドは中央のステージを設けた折板構造の円形ホールを提案した。しかし井上は新たな条件に歌舞伎をなどの演劇公演が可能であることなどと答えたがかなりの難問だったという。第2案は様々な舞台装置を収納できるフライタワーを備えたもの。しかし建設予定地が高崎城址に決まるとレイモンド自らこれを却下。巨大なタワーが目立ち、石垣や緑の空間を台無しにしてしまうからだという。たどりついたのは、奇妙なザリガニ。

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アントニン・レーモンド井上房一郎群馬音楽センター高崎市(群馬)

群馬音楽センターの第三案は扇形のホールで、建物を柱なしにするために第一案の折板構造を再び採用した。舞台装置の収納場所はフライタワーのかわりにステージの左右を広げることで解決。これが最終案となった。1959年6月に着工し最も困難を極めたのはコンクリートを型枠に打ち込む作業。予算をおさえるためにコンクリートの使用量を極限まで減らし、屋根は12センチの薄さに。施工を請け負ったのは高崎の建設会社。レイモンドは高崎の地方の会社ではうまく行かないと思っていたというが、高崎市民は情熱をもってやり遂げた。予算がギリギリで3分の1は市民の寄付だったという。1961年7月18日に完成した。群馬音楽センターには一般的なホールにある額縁のようなプロセニアム・アーチがない。2階席から舞台までながらかに傾斜しながら続いていく。レイモンドはホールを1つの空間にすることで客席と舞台に一体感を生み出したかったという。観客も、舞台に上がる人もその空間と時間を共有し、ともに作り上げる同士であると、ホールそのものが生み出す楽器としたいと作られた。さらに廣津留すみれがバイオリンで演奏を披露した。レイモンドは群馬音楽センターについて建築のマイルストーンとして技術の驚異と呼ばれる建築の範疇にはいると語っている。

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群馬音楽センターの近くにある石碑のうらには、昭和三十六年ときの高崎市民之を建つと刻まれていた。

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(エンディング)
次回予告

新美の巨人たちの次回予告。

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