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「旧広島文理科大学」 のテレビ露出情報

広島で被爆された方の家族写真。真ん中に座っているのが被爆されたおばあさん。その周りを囲むように子ども、孫、そしてひ孫と世代を重ねてきた家族が一枚の写真に収まっている。撮影したのは広島市の写真家、堂畝紘子さん。作品のテーマは、「被爆三世の家族写真」。撮影を通し、被爆体験を話してもらったり、話を聞いた子どもや孫の世代に写真を展示する際の説明文を書いてもらったりしている。自然と被爆の体験をつないで平和の意味を考えるきっかけにしたいという思いを込めている。広島に生まれ育った堂畝さん。カメラマンとして企業や学校などの仕事で生計を立てながら依頼を受けて被爆三世の家族写真を無償で撮影している。きっかけは8年前。被爆体験を持つ人が減る中で戦争も戦後の復興も知らない世代の自分に何ができるのか、悩んでいた堂畝さん。ある被爆者の4世代にわたる家族写真を撮影したときに思いがけないことばをかけられた。1枚の写真に収まる家族の姿が映す命のつながり。被爆者の家族写真が戦争を直接知らない世代にとっても身近で平和を考えるきっかけになると気が付いた。広島や長崎など全国各地を巡り、これまでに90組以上の家族を撮影した。
写真の撮影が秘められてきた被爆体験を初めて聞く機会になったという家族がいる。出張直子さんと娘で小学2年生のひな実さん。4年前に堂畝さんが撮った写真。出張さんの母、良子さんと伯父、巌さんは広島で被爆した。伯父の巌さんが被爆体験を語る活動をしてきた一方、母の良子さんは話すことを避けていた。出張さんは母に被爆のことを教えてもらうきっかけになればと写真の撮影を依頼した。撮影のために集まり、ベンチでくつろいでいたとき、母、良子さんは6歳で被爆したときの記憶を初めて口にした。出来上がった写真を見た出張さん。ふだん穏やかな2人が笑顔では写らなかったことに被爆体験の重みを感じた。伯父の巌さんは去年、93歳で亡くなった。出張さんは今も写真に写る2人の気持ちに思いをはせている。伯父や母の体験をひな実さんにも伝えていきたいと考えている。
4月下旬。92歳の被爆者から過酷な体験を生き延びてきた証しを家族の写真で残したいと撮影の依頼があった。広島市に住む新井俊一郎さん。新井さんが撮影場所に選んだのは公園内に残る旧広島文理科大学の校舎の前。爆心地から1.4キロほどの場所にあり、原爆による爆風と火災などの被害を受けた建物。当時新井さんは同じ敷地にあった付属中学校に通う中学1年生だった。食糧増産のための学徒動員で市内を離れていたがくしくも8月6日、母校への伝令のため広島市内に向け出発。その道中で原爆がさく裂した。到着した広島の町は燃え盛り、木造だった中学校の校舎は跡形もなくなっていた。がんを患い、これまで5回の手術を繰り返してきた新井さん。ことし、左の腎臓にもがんが見つかり、経過を見守っている状態。集まったのは、子、孫、そしてひ孫までの4世代総勢10人。離れて暮らす家族も含めて全員で写真を撮ろうと新井さんが呼びかけた。3人の孫たちは子どものころから新井さんが8月6日に見た凄惨な光景など被爆の体験を聞いてきた。新井さんが取り出したのは交通事故で亡くなった次女の真由美さんと新井さんの両親の写真。家族みんなで撮影する。

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