黙っていなかった日本のメディアは、当時142社が加盟していた日本記者クラブが宮内庁に強く要請。1975年10月31日、ついに日本のテレビカメラを入れた初めての会見が開かれることになる。出席を許されたのは50人。最前列は宮内庁担当の記者。後列の25~50までは抽選で選ばれた地方局などの記者たち。物議を醸したのは49番に座った記者。彼の発した質問に会見場の空気は一変したという。その49番の記者の生前の証言が残っている。元中国放送の記者の秋信さんは、被爆者の取材に心血を注いできた記者として譲れない質問があったという。ところが、質問案はすでに提出済みだった。戦争について踏み込んだ項目はなく、秋信さんの入る余地はなかった。そこで相談したのが、会見を取り仕切る日本記者クラブの桂さんだった。授けられたのは関連質問という突破口。戦争に関わるやり取りさえ出れば発言のチャンスはある。そして迎えた会見当日。司会から戦後の巡幸についての質問が。その巡幸に関連付けて切り込んだ。「やむを得ない」の言葉に被爆者は激しい反発の声を上げた。宮内庁は火消しに追われる。「どうしようもなかった」があの言葉の真意なのだと。秋信さんは、天皇の話について一切評価しないという。読む人がどう読もうと、読む人の思いだからだという。1989年1月7日、言葉の真意は明かされぬまま崩御され、昭和は幕を閉じた。そして平成へ。戦没者の慰霊に心を尽くされた上皇さま。ごく限られた場で、昭和天皇について「とにかくあの戦争を後悔していると苦しんでいたと、あの戦争には不本意だったんだ」と話されたという。
