- 出演者
- 膳場貴子 出水麻衣 井上貴博 古田敬郷 浜田敬子 影山優佳 松井ケムリ(令和ロマン) 堤伸輔 松村沙友理 岸谷蘭丸
1955年に自民党は結党した。7月の参院選。日本人ファーストを訴えた参政党。台風の目となった。神谷宗幣代表は、自民党に対する失望が理由だという。林芳正氏は保守を訴えた。高市早苗氏は保守政党だという。石破茂前総理大臣は自民党の現状に危機感を示していた。保守の精神は寛容の精神として示されていた。戦後保守の中心は、すべて権力の行使は抑制的にやろうという姿勢だった。自民党が目指した保守とはなんだったのか。1951年のサンフランシスコ平和条約の締結で日本は主権を回復。吉田茂総理大臣は自由党の総裁だった。1955年に社会党の統一をうけ、その台頭を危惧し自由党と鳩山一郎総理大臣ひきいる日本民主党が合同となり自由民主党が結党した。保守合同となった。
吉田茂氏は、戦前、駐イギリス大使などを歴任。「親アメリカ・イギリス」の立場で戦争に反対した。吉田氏は、戦後、安全保障をアメリカに委ね、日本は経済復興に全力を注ぐ「現実路線」をとった。一方、鳩山一郎氏は戦後GHQにより公職追放された。親米の吉田氏を批判しアメリカと距離を取った。鳩山一郎氏に近い岸信介氏は、A級戦犯容疑者として収監された過去を持ち、憲法改正により真の独立を目指した。自民党本部には保守の原点の資料が残っている。「保守主義の政治哲学要綱」だ。保守主義の哲学は、健全なる常識を尊重し、自己の立場と共に他人の立場を尊重する寛容の精神に通ずるものだという。元衆院議長の大島理森氏は、自民党の哲学の引き継がれた精神の解釈の貴重な文書だという。この要綱ができた1960年は岸信介氏が総理大臣だった。日米安全保障条約の改定をすすめた。国会の大混乱を招いた。安保闘争が起きた。国内に分断が生じた。
吉田路線の池田勇人氏が総理となった。「寛容と忍耐」は民主主義の根本だという。所得倍増計画を打ち出した。そのあとをついだのも吉田路線の佐藤栄作氏。高度経済成長を牽引した。そのあとは吉田路線の田中角栄氏、鳩山一郎路線の福田赳夫氏、吉田路線の大平正芳氏。主流派が入れ替わりながら、自民党は政権を維持してきた。
しかし、総理指名をめぐり、大平総理と福田氏が対立。自民党結党以来、最大の危機となった。40日抗争の勃発だった。自民党から総理指名候補は2人となった。結果、大平総理が勝利。翌年、福田派などの造反により不信任案が可決した。大平総理はハプニング解散に追い込まれた。それでも大平総理は造反組を選挙で公認した。
元号は平成となった。保守政党としての転換点だった。中選挙区制が金権政治を招くなどとして小選挙区制を求める声が政界で高まった。自民党内には反発の声があった。この小選挙区制という選挙制度は執行部独裁制を作ってしまうという声があった。総裁と幹事長がほぼ公民権を握るために、誰も反対を唱えられなくなってしまうと言っていた。自民党は分裂。細川護熙内閣が誕生。自民党ははじめて野党へ転落した。翌年、細川護熙総理大臣のもと、小選挙区制の導入が決定された。ここから党執行部の権力が強まった。橋本龍太郎氏、小渕恵三氏と吉田路線が主流派になった。ここで鳩山一郎路線の森喜朗総理が誕生。森内閣への不信任案が出された。加藤紘一氏、山崎拓氏が賛成にまわろうと画策。世にいう加藤の乱。党執行部の野中広務幹事長は、党として看過できないと述べた。除名処分はもちろんだという。野中広務幹事長は鎮圧をはかった。万策尽き、ひとりで賛成票を投じに向かおうとした加藤紘一氏。しかし、失敗。強権をさらに加速させたのは小泉純一郎氏。熱狂的な支持を受けた小泉純一郎総理大臣。郵政民営化に反対した党員は公認せず、。刺客を送り込んだ。刺客のひとちは小池百合子氏。政治の世界から抹殺するような行為が行われたと小林興起氏は述べた。野田聖子氏も郵政民営化に反対。かつて造反者すら公認した寛容の精神があった自民党。しかし分断の論理となった。のちに小泉純一郎元総理大臣は、小選挙区には反対していたが、しかし、総理になってから小選挙区の恩恵を受けたと語った。小選挙区だったから郵政民営化ができたという。
自民党は保守の精神を失ったのか。やがて民主党に政権交代。自民党はふたたび野党へ。谷垣禎一総裁は保守政党としての自民党のあり方を見つめ直した。新たな綱領を策定した。そこには寛容の精神が明記された。大島理森幹事長は、出直そうとしていたという。原点は保守党、国民政党であることだ。国民に信頼を得ようと考えたとのこと。自民党は保守政党として再スタートを切った。
自民・小林鷹之政調会長は安倍政権について「選挙において民意を得てきた政権。そのため政治的決断や意思決定のスピードは速かった」などと話した。安倍政権は集団的自衛権の行使容認を目指し、2015年に反対を押し切って安保法案の採決を強行した。小林氏は「自らと異なる考えや価値観に寛容であるべきだというのが本来の保守のあるべき姿」などとした上で「安倍政権での政策決定が乱暴だったとは思わない。政治は最後は決めなきゃいけない」などと話した。大島氏は「保守もリベラルもなんとなくで色分けしてしまう世の中が怖い。白黒決着をつける政治は危険だと思う」などと話した。
オープニング映像。
自民党と保守について。岸谷さんは「保守という考え方には様々な歴史があり、解釈の違いがあることに驚いた」などと話した。堤さんは「今の自民党、及び保守を名乗っている人たちの寛容に対する姿勢はズレすぎているのではないか」などと話した。浜田さんは「保守の役割は社会課題に中長期的に取り組むこと。今の保守の流れでは社会課題に対応できないのではないか」などと話した。松村さんは「結婚・妊娠を経て政治を身近に感じるようになった。様々な考えがあることは悪いことではない」などと話した。
テレビのブラウン管に初表示されたのはカタカナの「イ」。昭和元年(1926年)、高柳健次郎博士が浜松高等工業学校で世界で初めて実験に成功。番組ではテレビ俳優第一号の黒柳徹子さんの歩みを通して昭和100年を振り返る。
1926年~1945年(昭和元年~昭和20年)までを振り返る。少女時代は戦争一色だった。小学校低学年の頃、いつもしていたのが駅に兵隊を送りに行くこと。「バンザイ」ってするとスルメを1本くれたといい、「バンザイ」「行ってらっしゃい」って言った時に、兵隊は「行ってきます」って言って、“私は悪かったな”と責任を感じたという。やがて戦況が悪化し始める。小学3年生の頃には1日の食べ物がわずかに。1日煎った大豆15粒で暮らし、病気になっても治す薬も売ってなければ病院に行っても薬がないため、ずいぶん我慢強くなったという。小学5年生の時、ヴァイオリン奏者だった父親が満州へ出征。電柱の影に隠れているのが黒柳さん。この時はバンザイができなかったそう。1945年(昭和20年)、東京で信じられない光景が。
1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲。未明からの爆撃で下町は火の海と化し、一夜で約10万人が犠牲に。黒柳さんの自宅は無事だったが、空は本が読めるくらい明るかったという。空襲の翌日、黒柳さんは母に連れられ青森へ疎開。その後も主要都市で空襲が続き、4月には連合軍が沖縄本島に上陸。広島・長崎に原爆が落とされ、8月15日、戦争が終わった。青森にいた黒柳さんは下校途中に終戦を知ったという。翌年、東京へ帰った黒柳さん。4年後に父がシベリアから帰還し、再会することができた。黒柳さんは「戦争は絶対嫌ですよね。本当に理不尽なもの」と語った。
昭和の100年で暮らしがどんなふうに移り変わってきたかを紹介。冷凍食品が物価高で注目され、去年の国内での消費額が1兆3000億円を超え過去最高。1964年の東京オリンピックで、当時五輪大臣だった佐藤栄作が選手村の試食会のときに冷凍食品も並べられ味見をしている。この時に冷凍のローストビーフを口にし「これはうまい。実にうまい」と発言があり、選手村での採用も決まり家庭への普及も広がっていった。普及を後押ししたのが冷凍庫付きの冷蔵庫の誕生。オリンピックの翌年に冷凍食品にとって革命が起こる。1965年に電子レンジが登場。当時の価格は19万8000円で、今の価格で約90万円と高級品だった。家庭用電子レンジが普及し「新・レンジ生活」が発売され時短が進んでいった。その後、コロナ禍を迎え冷凍食品はグルメ化が進む。「お水がいらないプレミアム 飯田商店醤油らぁ麺」は、水を加える手間がなく、手間いらずで本格的な味を楽しめる。解凍するだけでレストランさながらのステーキも味わえる。未来の冷凍食品がどうなるかについて。食品を急速冷凍しパウダー化して保存。食べる時にパウダーをペースト状にして3Dプリンターで形作る。スタジオで3Dプリンターで作ったタコの切り身を試食。切り身を作るのに、今は15~20分かかる。パウダー化したものは冷凍すると10年ほど保存可能だという。
SNSで拡散するデマ 参院選や知事選でも…
「THE TIME,」の番組宣伝。
プロパガンダの天才と言われたヨーゼフ・ゲッベルスはナチスの宣伝大臣。人類史上最悪の犯罪と言われるホロコーストは毒ガスなどを用いユダヤ人など約600万人が犠牲になった。シオン賢者の議定書にはユダヤ人が世界の支配を目論んでいるとい陰謀論がしたためられており、ナチスはこれを演説で利用しユダヤ人への憎悪を広げていった。東京大学名誉教授の石田さんはヒトラーはこの本を信じていたが、ゲッベルスは半信半疑だったようだが使えると思ったと話した。第一次世界大戦後のドイツは失業者にあふれ人々は苦しい生活を送っていたが原因はユダヤ人だという噂が流布し始めた。
ある映画の上映中にナチ党員が悪臭弾を放ちねずみをばら撒いた。上映されていた作品は西部戦線異状なし。反戦を訴えた傑作で人気を博していた。原作者はドイツ人作家のエーリヒ・マリア・レマルクで、ゲッベルスの目の敵になった。ドイツ北部にレマルクの資料館があり、研究員はレマルクについて多くのデマが流布されたと話す。反戦を訴えるレマルクはナチスの政策に背いているとし邪悪な存在として祭り上げられユダヤ人だというデマも流され、ドイツ国籍もはく奪された。
ヒトラーは当時の新しいメディアのラジオを本格使用し、連立与党として初めて過半数を獲得した。放送の威力を思い知ったゲッベルスは安価なラジオの大量生産を指示し爆発的に売れた。党大会を記録したプロパガンダ映画ではヒトラーへの熱狂が渦巻いていた。こうして権力を掌握したナチスは人類史上最悪の犯罪へと突き進む。しかし海の向こうのラジオ局が抗いはじめた。
イギリスのロンドンにヒトラーやゲッベルスに抗ったラジオ局がある。イギリス政府の要請で始まったBBCのドイツ語放送はナチスのプロパガンダに対抗するため真実の放送を目指した。歴史研究家のエミリーさんは、BBCの常に真実を伝えるという戦略はナチスの嘘を暴くためのものだった。ドイツ国民に対して真実を伝え続ければやがて政府を疑い始め支持しなくなるだろうという考えだったと話す。BBCはナチスが隠す戦況をありのまま伝え、300万人ほどのドイツ人がBBCドイツ語放送を聞いていた。ドイツ人リスナーを増やすため効果的だったのはドイツ人捕虜の声を放送することで、BBCの情報を信じる人が増加した。
岸谷蘭丸はSNSの時代になって放送や情報の発信という点で新しい時代になったと感じており、今まではメディアと呼ばれるところでしか発信できなかったが全員が発信者にも受信者にもなれるなどと話した。松村沙友理はアイドル時代にデマに悩まされたことがありこれが正しい情報と発信しても伝わりづらく、受け取り手も重要だと思うと話した。
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