最後の視点は金閣寺再興に尽力した住職の村上慈海。村上慈海は弟子の放火によって国宝を失ったことを詫びていたという。村上慈海の弟子だった西田承元は、事件について村上慈海は一言も口にしてなかったと語った。村上慈海は金閣寺の再建に動いたが、当時は戦争が終わって5年ということもあり、周囲の反応は冷ややかだった。そのため住職自ら托鉢するようになり、そこから支援の輪が広がったという。そして2年後に金閣寺再興の工事が始まったという。一方で林養賢は精神状態が悪化して意思疎通ができなくなっていったという。昭和30年に金閣寺が落慶し、林養賢は釈放された。ただ林養賢はそのまま病院に入院し、半年後に結核で死去したという。
西田承元は村上慈海の元で修行生活をしている中で驚いたことがあると語り、それは金閣寺の仏間には林養賢や林養賢の母の位牌も祀っているということだという。放火事件から35年後の1985年に村上慈海は死去したという。
西田承元は村上慈海の元で修行生活をしている中で驚いたことがあると語り、それは金閣寺の仏間には林養賢や林養賢の母の位牌も祀っているということだという。放火事件から35年後の1985年に村上慈海は死去したという。