1928年、ドイツの名門・ゲッティンゲン大学には才気溢れる若者が世界中から集まっていた。原子物理学の分野で革新的な成果を連発していたこの大学で、研究の中心となっていたのが若き物理学者、ヴェルナー・ハイゼンベルク。1933年に史上最年少でノーベル物理学賞を単独受賞したハイゼンベルクの下には、世界中から天才たちが教えを請いに訪れた。東大を首席で卒業した日本人の仁科芳雄もその1人である。1926年にはアメリカからやってきた22歳の若者、ロバート・オッペンハイマーもハイゼンベルクに師事し7本の論文を執筆。この論文が認められたオッペンハイマーは博士号を手にし、アメリカへと帰国した。
帰国したオッペンハイマーは27歳にしてカリフォルニア大学の助教授となり、同僚のアーネスト・ローレンスと友誼を深めた。学究肌のオッペンハイマーは大学内でも目立たない存在だったが、それとは対照的にローレンスは粒子加速器・サイクロトロンの開発に成功。。このサイクロトロンはミクロの粒子を原子に衝突させて原子を破壊することができる機械で、この功績によってローレンスは1939年にノーベル物理学賞を受賞する。「この研究の先には、これまで発見されたものを凌駕する宝物が眠っていることでしょう」……そう語るローレンスの言葉通り、”宝物”は6年後に見つかった。
1939年9月、ナチスのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発すると、フランクリン・ルーズベルト大統領の元に一通の手紙が届けられた。差出人の名は20世紀最大の物理学者、アルバート・アインシュタイン。手紙には、ドイツが原子の力を利用した超強力な新兵器「原子爆弾」を開発する危険性があることが綴られていた。ドイツの研究者たちはウランの原子核に中性子を衝突させることで莫大なエネルギーが得られるという研究結果を公表しており、アインシュタインはナチスがこの研究を軍事に利用することに危機感を抱いていたのである。アインシュタインはドイツよりも先にアメリカが原子爆弾を開発するように勧め、ルーズベルトもその提案に従うことを決めた。
1942年、アメリカの原子爆弾開発プロジェクト「マンハッタン計画」がスタートする。計画には20億ドルの予算が投じられ、全米に開発拠点が設置された。プロジェクトの頭脳となるのはアメリカ中から集められた科学者たちで、彼らを率いるリーダーに任命されたのは原子物理学の若き権威、アーネスト・ローレンス。ローレンスは自ら必要な装置を開発し、原爆開発に必要な濃縮ウランの製造をスタートさせた。濃縮ウランの製造にあたる作業員とその家族は研究所の近くに新たに作られた街で生活し、自分たちが何を作っているのかは知らされないまま作業を進めていたという。
濃縮ウランの製造が順調に進む中、ローレンスは爆弾の設計を担当するリーダーとしてオッペンハイマーを推薦した。ユダヤ人であるオッペンハイマーはナチスを打倒する大役に奮起し、ニューメキシコ州の奥地にロスアラモス研究所を設立して6000人の科学者や軍人を集める。研究所では爆弾の内部で効率的な核分裂を行うための方法が繰り返し探究され、オッペンハイマーはその中で部下たちの尊敬を集めるリーダーとなっていた。
アメリカがマンハッタン計画を進める一方で、枢軸国でも原爆開発が進められていた。チェコのウラン鉱山やノルウェーの重水工場を接収したドイツでは、オッペンハイマーの師とも言えるハイゼンベルクが原爆の研究を進めていた。そして、日本でもハイゼンベルクに学んだ仁科芳雄が日本軍からの依頼を受けてウランの濃縮実験を繰り返していた。
1945年の初夏、オッペンハイマー率いる科学者たちはニューメキシコ州の荒野で史上初の原爆実験に向けた準備を急ピッチで進めていた。だがこの頃、科学者の本能に突き動かされるように働いていたオッペンハイマーの熱意とは裏腹に、戦局は大きく変わりつつあった。ドイツが降伏し、日本の降伏も時間の問題となる中で原爆開発を継続する意義も揺らぎはじめたが、オッペンハイマーはそうした声を抑え込んで計画を継続させた。
マンハッタン計画の開始から2年11ヶ月後、ウランから人工的に作られた核物質「プルトニウム」を詰め込んだ新兵器「原子爆弾」が遂に完成。「トリニティ実験」と名付けられた史上初の核実験が行われることとなり、オッペンハイマー率いる科学者たちは自身が手掛けた核の力が炸裂する様を目にすることになる。1945年7月16日、午前5時29分45秒。ニューメキシコ州の荒野に巨大な火柱と轟音が立ち昇る中、オッペンハイマーは自身の実験が成功したことを悟った。
アメリカ大統領、ハリー・S・トルーマンは連合国首脳とのポツダム会談に臨んでいた席上で実験成功の知らせを耳にした。戦後を見据えていたトルーマンは新兵器の威力を見せつけてソ連を牽制するため、また自軍兵士の消耗を避けるため、日本への原爆投下を承認。原子爆弾「リトルボーイ」はかつて日本が統治し、日本人の子供達が数多く暮らしていたテニアン島へと運び込まれ、そこから広島に向けて飛び立った。1945年8月6日、8時15分。史上初めて人間の頭上に落とされた原爆は地上に壮絶な光景をもたらすに至る。広島への原爆投下の知らせはトルーマン大統領の声明を皮切りに世界へ報じられたが、その反応は様々だった。ドイツの捕虜としてイギリスに拘束されていたハイゼンベルクは「それはきっと、原子とは何の関係もない代物だろう。アメリカにいるのは素人だ。実際には、全然うまくいかなかったのではないかな」と吐き捨て、仁科芳雄は「文字通り、腹を切る時が来たと思う。米英の研究者は、日本の研究者に対して大勝利を得たのである」と強烈な自責の念を述べた。科学者たちがそれぞれの反応を示す中、1945年8月9日には長崎に原爆が投下。2発の原爆で21万人の死者を出した日本は、それから5日後に降伏した。
終戦の翌月、オッペンハイマーは「原爆の父」として世界に知られることとなる。一躍アメリカの英雄となったオッペンハイマーは親友のローレンスに代わって科学界のスターとなったが、彼の心中にはある変化が生まれていた。それを象徴するかのように、軍から感謝状を贈呈された際にオッペンハイマーは次のように語っている。「今、誇りは深い懸念と共にあります。もし原子爆弾がこれから戦争をしようとしている国々の武器庫に加わることになれば、いつか人類はロスアラモスとヒロシマの名を呪うことになるでしょう」。それから程なくして、オッペンハイマーはロスアラモスの所長を退任した。
同じ頃、日本では原爆の被害を記録する映画「広島・長崎における原子爆弾の影響」の撮影が進んでいた。この映画で学術指導を担当することになった仁科芳雄は、映像で克明に記された被爆者たちの姿を前に、初めて自身の作ろうとしていた兵器が人類に何をもたらすのかを知った。こうした後悔と自責の念に苛まれたのは、仁科だけではなくオッペンハイマーも同様だった。学会に出席したオッペンハイマーは、参加者たちを前にこう語っている。「皆さんの中には、長崎の写真を見て工場の大きな鉄の梁がねじまげられ、破壊しつくされたさまを見た方もいるでしょう。焼き殺された人たちを、広島の残骸を見た方もいるでしょう。核兵器は侵略の兵器、奇襲と恐怖の兵器に他なりません」。
1952年、ソ連との核開発競争に突入していたアメリカは新たな核兵器「水素爆弾」を生み出した。広島に落とされた原爆の650倍に及ぶ破壊力の水爆の開発を推進したのは、オッペンハイマーの親友であるローレンスだった。一方、政府の原子力委員会アドバイザーとなっていたオッペンハイマーは核開発競争に警鐘を鳴らすようになり、米ソの協調による核兵器の国際管理を訴えるようになる。しかし、そうした主張が受け入れられることはなかった。水爆の完成から2年後にオッペンハイマーは原子力委員会から追放処分を受け、赤狩りの対象として冷遇される晩年を過ごすことになる。親友であったはずのローレンスも彼に手を差し伸べることはせず、それどころか政府に対し「オッペンハイマーは二度と政策に関与させるべきではない」と提言していたという。
1960年9月、老境に差し掛かっていたオッペンハイマーは日本を訪れた。日本の記者から原爆の開発に関わったことを後悔しているか問われたオッペンハイマーは、「後悔はしていない」と答えたが、同時に「申し訳ないと思っていない、ということではない」とも付け加えている。オッペンハイマーは3週間に渡って日本に滞在したが、広島と長崎に足を踏み入れることはなかった。
来日から7年後の1967年2月18日、オッペンハイマーは癌により62歳で生涯を終える。その死の2年前、オッペンハイマーはあるインタビューでこんな言葉を残している。「私たちには大義があったと信じています。しかし、私たちの心は完全に楽になってはいけないと思うのです。自然について研究して、その真実を学ぶことから逸脱し、人類の歴史の流れを変えてしまったのですから。私は今になっても、あの時もっとよい道があったと言える自信がありません。……私には、よい答えがないのです」。
帰国したオッペンハイマーは27歳にしてカリフォルニア大学の助教授となり、同僚のアーネスト・ローレンスと友誼を深めた。学究肌のオッペンハイマーは大学内でも目立たない存在だったが、それとは対照的にローレンスは粒子加速器・サイクロトロンの開発に成功。。このサイクロトロンはミクロの粒子を原子に衝突させて原子を破壊することができる機械で、この功績によってローレンスは1939年にノーベル物理学賞を受賞する。「この研究の先には、これまで発見されたものを凌駕する宝物が眠っていることでしょう」……そう語るローレンスの言葉通り、”宝物”は6年後に見つかった。
1939年9月、ナチスのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発すると、フランクリン・ルーズベルト大統領の元に一通の手紙が届けられた。差出人の名は20世紀最大の物理学者、アルバート・アインシュタイン。手紙には、ドイツが原子の力を利用した超強力な新兵器「原子爆弾」を開発する危険性があることが綴られていた。ドイツの研究者たちはウランの原子核に中性子を衝突させることで莫大なエネルギーが得られるという研究結果を公表しており、アインシュタインはナチスがこの研究を軍事に利用することに危機感を抱いていたのである。アインシュタインはドイツよりも先にアメリカが原子爆弾を開発するように勧め、ルーズベルトもその提案に従うことを決めた。
1942年、アメリカの原子爆弾開発プロジェクト「マンハッタン計画」がスタートする。計画には20億ドルの予算が投じられ、全米に開発拠点が設置された。プロジェクトの頭脳となるのはアメリカ中から集められた科学者たちで、彼らを率いるリーダーに任命されたのは原子物理学の若き権威、アーネスト・ローレンス。ローレンスは自ら必要な装置を開発し、原爆開発に必要な濃縮ウランの製造をスタートさせた。濃縮ウランの製造にあたる作業員とその家族は研究所の近くに新たに作られた街で生活し、自分たちが何を作っているのかは知らされないまま作業を進めていたという。
濃縮ウランの製造が順調に進む中、ローレンスは爆弾の設計を担当するリーダーとしてオッペンハイマーを推薦した。ユダヤ人であるオッペンハイマーはナチスを打倒する大役に奮起し、ニューメキシコ州の奥地にロスアラモス研究所を設立して6000人の科学者や軍人を集める。研究所では爆弾の内部で効率的な核分裂を行うための方法が繰り返し探究され、オッペンハイマーはその中で部下たちの尊敬を集めるリーダーとなっていた。
アメリカがマンハッタン計画を進める一方で、枢軸国でも原爆開発が進められていた。チェコのウラン鉱山やノルウェーの重水工場を接収したドイツでは、オッペンハイマーの師とも言えるハイゼンベルクが原爆の研究を進めていた。そして、日本でもハイゼンベルクに学んだ仁科芳雄が日本軍からの依頼を受けてウランの濃縮実験を繰り返していた。
1945年の初夏、オッペンハイマー率いる科学者たちはニューメキシコ州の荒野で史上初の原爆実験に向けた準備を急ピッチで進めていた。だがこの頃、科学者の本能に突き動かされるように働いていたオッペンハイマーの熱意とは裏腹に、戦局は大きく変わりつつあった。ドイツが降伏し、日本の降伏も時間の問題となる中で原爆開発を継続する意義も揺らぎはじめたが、オッペンハイマーはそうした声を抑え込んで計画を継続させた。
マンハッタン計画の開始から2年11ヶ月後、ウランから人工的に作られた核物質「プルトニウム」を詰め込んだ新兵器「原子爆弾」が遂に完成。「トリニティ実験」と名付けられた史上初の核実験が行われることとなり、オッペンハイマー率いる科学者たちは自身が手掛けた核の力が炸裂する様を目にすることになる。1945年7月16日、午前5時29分45秒。ニューメキシコ州の荒野に巨大な火柱と轟音が立ち昇る中、オッペンハイマーは自身の実験が成功したことを悟った。
アメリカ大統領、ハリー・S・トルーマンは連合国首脳とのポツダム会談に臨んでいた席上で実験成功の知らせを耳にした。戦後を見据えていたトルーマンは新兵器の威力を見せつけてソ連を牽制するため、また自軍兵士の消耗を避けるため、日本への原爆投下を承認。原子爆弾「リトルボーイ」はかつて日本が統治し、日本人の子供達が数多く暮らしていたテニアン島へと運び込まれ、そこから広島に向けて飛び立った。1945年8月6日、8時15分。史上初めて人間の頭上に落とされた原爆は地上に壮絶な光景をもたらすに至る。広島への原爆投下の知らせはトルーマン大統領の声明を皮切りに世界へ報じられたが、その反応は様々だった。ドイツの捕虜としてイギリスに拘束されていたハイゼンベルクは「それはきっと、原子とは何の関係もない代物だろう。アメリカにいるのは素人だ。実際には、全然うまくいかなかったのではないかな」と吐き捨て、仁科芳雄は「文字通り、腹を切る時が来たと思う。米英の研究者は、日本の研究者に対して大勝利を得たのである」と強烈な自責の念を述べた。科学者たちがそれぞれの反応を示す中、1945年8月9日には長崎に原爆が投下。2発の原爆で21万人の死者を出した日本は、それから5日後に降伏した。
終戦の翌月、オッペンハイマーは「原爆の父」として世界に知られることとなる。一躍アメリカの英雄となったオッペンハイマーは親友のローレンスに代わって科学界のスターとなったが、彼の心中にはある変化が生まれていた。それを象徴するかのように、軍から感謝状を贈呈された際にオッペンハイマーは次のように語っている。「今、誇りは深い懸念と共にあります。もし原子爆弾がこれから戦争をしようとしている国々の武器庫に加わることになれば、いつか人類はロスアラモスとヒロシマの名を呪うことになるでしょう」。それから程なくして、オッペンハイマーはロスアラモスの所長を退任した。
同じ頃、日本では原爆の被害を記録する映画「広島・長崎における原子爆弾の影響」の撮影が進んでいた。この映画で学術指導を担当することになった仁科芳雄は、映像で克明に記された被爆者たちの姿を前に、初めて自身の作ろうとしていた兵器が人類に何をもたらすのかを知った。こうした後悔と自責の念に苛まれたのは、仁科だけではなくオッペンハイマーも同様だった。学会に出席したオッペンハイマーは、参加者たちを前にこう語っている。「皆さんの中には、長崎の写真を見て工場の大きな鉄の梁がねじまげられ、破壊しつくされたさまを見た方もいるでしょう。焼き殺された人たちを、広島の残骸を見た方もいるでしょう。核兵器は侵略の兵器、奇襲と恐怖の兵器に他なりません」。
1952年、ソ連との核開発競争に突入していたアメリカは新たな核兵器「水素爆弾」を生み出した。広島に落とされた原爆の650倍に及ぶ破壊力の水爆の開発を推進したのは、オッペンハイマーの親友であるローレンスだった。一方、政府の原子力委員会アドバイザーとなっていたオッペンハイマーは核開発競争に警鐘を鳴らすようになり、米ソの協調による核兵器の国際管理を訴えるようになる。しかし、そうした主張が受け入れられることはなかった。水爆の完成から2年後にオッペンハイマーは原子力委員会から追放処分を受け、赤狩りの対象として冷遇される晩年を過ごすことになる。親友であったはずのローレンスも彼に手を差し伸べることはせず、それどころか政府に対し「オッペンハイマーは二度と政策に関与させるべきではない」と提言していたという。
1960年9月、老境に差し掛かっていたオッペンハイマーは日本を訪れた。日本の記者から原爆の開発に関わったことを後悔しているか問われたオッペンハイマーは、「後悔はしていない」と答えたが、同時に「申し訳ないと思っていない、ということではない」とも付け加えている。オッペンハイマーは3週間に渡って日本に滞在したが、広島と長崎に足を踏み入れることはなかった。
来日から7年後の1967年2月18日、オッペンハイマーは癌により62歳で生涯を終える。その死の2年前、オッペンハイマーはあるインタビューでこんな言葉を残している。「私たちには大義があったと信じています。しかし、私たちの心は完全に楽になってはいけないと思うのです。自然について研究して、その真実を学ぶことから逸脱し、人類の歴史の流れを変えてしまったのですから。私は今になっても、あの時もっとよい道があったと言える自信がありません。……私には、よい答えがないのです」。
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