1993年、千葉・木更津側では順調に橋の土台が築かれていた。一方、海水を注入した人工島。水を抜いた後、内部の鉄筋がサビないように200人がかりで洗浄作業に取り掛かり完璧に海水を落とした。1994年11月、世界最高のシールドマシンが4台やって来た。作ったのは川崎重工と三菱重工の技術者たち。松田豊は神戸からの遠征に気合が入っていた。松田の出張中の唯一の楽しみは家族と毎晩電話で話すことだった。しかし2カ月後、阪神・淡路大震災が発生。家族が暮らす須磨区ではビルが倒壊し火災も起きていた。妻とは連絡がついた。子どもと車で寝泊まりし、お菓子で飢えをしのいでいたという。川崎人工島には被災地に家族を置いてきたものが大勢いた。高野は部下たちにいますぐ家族のもとに帰れと号令をだした。しかしシールドマシン担当者は全員神戸から来ていた。全員が変えれば工事が遅れると、松田は話し合い順番に部下を帰し自分は最後だと決めていた。震災から2カ月、松田は家族の元へ帰った。松田は妻に詫び、完成したら一緒に渡ろうと約束し1週間後、現場に戻りマシーンを仕上げた。シールドマシーンが掘り始める時には柔らかい地盤から水が吹き出すリスクがあった。そのため地盤凍結機を使い土を凍らせ出水をガード。そして手前の壁を重機で壊し、発進させる計画。しかし壁が土と水の圧力に押され想定の2倍以上硬くなっていた。ボスの高野は発破で壁を壊すことを決め、この方法は見事成功した。着工から6年、足踏みしていた4台のシールドマシーンが一気に動き出した。
