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「東京逓信病院」 のテレビ露出情報

1955年秋に誕生した自由民主党。その翌年、総裁選挙をきっかけに党内のグループ・八個師団があらわになった。池田勇人を中心とした宏池政策研究会は、現在の岸田派・麻生派に繋がる派閥。佐藤栄作を中心とした周山会は現在の茂木派に繋がる。岸信介を中心とした十日会は、のちの安倍派のルーツ。さらに河野一郎を中心とした春秋会は現在の森山派・ニ階派に。そして大野派など残り4つを合わせて八個師団と呼ぶ。1964年11月9日、佐藤栄作内閣が発足。100人を超える大派閥となっていった。
高度経済成長による国民の支持と、派閥の支えにより7年8ヵ月の長期政権を築いた佐藤栄作。沖縄返還という日本の悲願を実現した。その後は五大派閥による跡目争いが勃発。1972年の自民党総裁選に出馬したのは三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫の4人。最有力とみられたのは福田氏。そこで田中氏は残り2人と手を組み、多数は工作で福田氏の追い落としにかかった。この時三木氏は、自民党の派閥政治について「カネの問題。これはヘタするとこの面から政党が崩れる。だからカネのかからない政治をすることに対して、新しい出発をしなければならない」と警鐘を鳴らしていた。
当時田中氏の手法は”政治は数 数は力 力は金”と言われていた。結果この時の総裁選では田中氏が総裁に選出されている。総理総裁派閥となった田中派は拡大を続け、最大140人を超える巨大派閥に成長。当時各派閥では、選挙資金として所属議員に現金を支給するのが慣例だった。田中派はその金額が突出していたという。そんな田中総理の春は、金脈問題発覚により長続きしなかった。その後田中内閣は総辞職。さらにロッキード事件で自宅収賄罪を問われ、逮捕されることになった。
しかしその後もキングメーカーとして、大平氏・鈴木善幸氏・中曽根氏の総裁就任に影響力を維持し続けた田中氏。1985年、退陣から10年以上経ても他派閥から総裁を担ぎ続けていた。そんな田中氏に若手議員の不満が募る中、竹下登氏が反旗を翻す。田中派内で新たに創政会を立ち上げた。表向きは勉強会という形だったが、事実上のクーデターに。1985年に田中氏が脳梗塞で入院すると、徐々に形成は竹下氏の側に。1987年ついに竹下氏が経世会を発足。最大派閥の力を背景に総理の椅子に座るが、翌年に発覚したリクルート事件で1989年に辞任した。しかし重要ポストの幹事長を竹下派が歴任するなど、経世会支配の時代が築かれた。ところが派閥会長の座を巡る争いに敗れた羽田氏・小沢氏のグループが離脱し、竹下派は弱体化していく。その後55年体制は終焉を迎えた。
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