テーマは「発見!明智光秀直筆の手紙、本能寺の変おこした理由が!」。現存する戦国時代の覇者・織田信長の残した手紙は800通、その中の60通を保管、管理している永青文庫で2回にわたり歴史の新しい一面が分かる貴重な手紙を紹介してきたが、今回は本能寺の変に関係した手紙を紹介。天下統一を目前に家臣・明智光秀の謀反によって京都・本能寺で信長が最後を迎えた有名な出来事だが永青文庫には信長の光秀に対する心境が読み取れる文書がある。細川家への最後の手紙は本能寺の変1ヵ月前に信長は変化に気付いていたのか。織田信長の生前最後の出した手紙「織田信長朱印状一色五郎・細川藤孝宛」を紹介。備中(現・岡山県西部)を攻めていた秀吉の援軍を細川家へ要請する内容だが、稲葉教授は機密命令を細川家に伝える人物に注目、日向守とは明智光秀のこと、信長の軍事的な命令などあらゆることを光秀から伝えていて信長は1ヵ月前まで露ほども疑いを持っていなかった。なぜ明智光秀は本能寺の変を起こしたのか。日本史最大の謎とも言うべきその理由を光秀本人が書き記した手紙がある。本能寺の変を起こした直後に書いた明智光秀の手紙「明智光秀覚条々細川藤孝・忠興宛」は直筆のものと考えられ、信長を殺した理由を「忠興などを取り立てようとの意図によるもので他意はない。50日か100日のうちには畿内近国の政治状況は安定するでしょうからそれ以後は、後継者に実権を引き渡して私は身を引くつもり」と説明している。本能寺の変の後、明智光秀の手紙をもらった細川藤孝は光秀に味方することなく豊臣秀吉につく。細川家の公式記録「杉若藤七書状写松井康之宛」によると本能寺の変の6日後、秀吉と細川は同盟を結んでいた。光秀が細川家に手紙を書いたのが本能寺の変の1週間後6月9日、その前日8日にはすでに秀吉との同盟が成立していたことが手紙から分かった。永青文庫の展覧会「信長の手紙」は12月1日まで。
住所: 東京都港区南麻布5-7-13
URL: http://www.library.metro.tokyo.jp/12/
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