いくつものトンネルを抜け、やってきたのは山梨県早川町奈良田へ。ここでは10世帯19人が暮らしているという。深沢實さんは生まれてからずっと奈良田で暮らしてきたという。食べる野菜は自宅で作り、養蜂まで行っている深沢さん。奈良田では深沢さんのように何でもできる人を「万能丸」と呼ぶのだという。秘境と呼ばれてきた奈良田では、古くから自給自足の暮らしを行ってきた。そんな中、昭和30年代に発電所ができ、多くの人が奈良田を出ていった。残った人は発電所で働き、深沢さんも働いてきたという。奥さんを亡くした今もこの地を離れない深沢さん、この土地への愛着は計り知れないという。上原佑貴さんはこの地に6年前に移住してきた。お子さんは4歳から中学3年生までの4人。上原さんは町から水道や山の管理などを請け負っている。東京出身で山での暮らしには縁がなかった上原さん、大学時代に都市計画の授業で訪れた奈良田を訪れ、住んでいる人たちに感銘を受けたという。家族も奈良田での暮らしを気に入っているのだという。
上原さんは新たに焼畑農業である「藪焼き」を復活させようと深沢さんのもとを訪れた。昭和30年頃まで行われたという焼畑農業、深沢さんは良くも悪くも自分たちの祖先が作った文化なのだと話してくれた。上原さんは焼畑復活のため、地域の共有林で伐採と防火帯など1ヶ月以上かけて準備してきた。この日手伝いに来てくれた深沢さんは感慨深いものがあると語った。しかし4時間が経過しても全体に火がまわらない。作業は途中で終えざるをえず、上原さんは「真似しきれなかった」と語った。
お盆、公民館では集落を離れた人も集まり、盆踊りを行った。この盆踊りも上原さんが先頭に立って復活させたもの。1つ1つ、奈良田の営みを受け継いでいく。お盆明け、上原さんと深沢さんは焼畑の続きを行った。上原さんはそばの種を蒔いた。秋には実をつけるのだという。
上原さんは新たに焼畑農業である「藪焼き」を復活させようと深沢さんのもとを訪れた。昭和30年頃まで行われたという焼畑農業、深沢さんは良くも悪くも自分たちの祖先が作った文化なのだと話してくれた。上原さんは焼畑復活のため、地域の共有林で伐採と防火帯など1ヶ月以上かけて準備してきた。この日手伝いに来てくれた深沢さんは感慨深いものがあると語った。しかし4時間が経過しても全体に火がまわらない。作業は途中で終えざるをえず、上原さんは「真似しきれなかった」と語った。
お盆、公民館では集落を離れた人も集まり、盆踊りを行った。この盆踊りも上原さんが先頭に立って復活させたもの。1つ1つ、奈良田の営みを受け継いでいく。お盆明け、上原さんと深沢さんは焼畑の続きを行った。上原さんはそばの種を蒔いた。秋には実をつけるのだという。