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「武市クリニック」 のテレビ露出情報

被爆者の切明千枝子さんは15歳のときに、爆心地から1.9キロの場所で被爆。病院に行く途中だったという。95歳を超えても尚、多い時に週に3日語り続ける。伝えるのは軍と広島の記憶。長年後悔してきたという思いと、その後の思いを短歌に託した。切明さんの取材を始めたのは6年前。戦前に軍服などを作る工場で被爆建物である旧広島陸軍被服支廠の解体問題が出たときだった。当時県は耐震性などの問題から、3棟のうち、2棟を解体する方針を示した。被爆者や市民団体は残すべきと訴えた。切明さんも保存を願う一人で、幼い頃には被服支廠で母が事務員として働く間、そこにあった幼稚園に預けられていた。活動が実を結び、解体は避けられた。切明さんは保存が決まったあとも被爆証言をするとともに被服支廠の歴史も語り続けている。
切明さんは96歳の今は、広島市内で息子夫婦らと暮らしている。新聞三紙をくまなく読むことが日課だという。1929年に広島市で生まれた切明さん。被爆前の広島市は、多い時では40万人を超える人々が暮らしていた。中国地方の政治・経済の中心として発展していくと同時に、軍用鉄道や軍事工場なども点在。国内有数の軍都だった。切明さんが小学生の頃に日中戦争が勃発。広島は軍都としての色をさらに強めていった。13歳頃になると軍事工場に動員される日々が続き、軍服などを作る被服支廠では血のついた軍服を洗濯し、軍用の食糧などを作る糧秣支廠にも駆り出されるようになり、缶詰の消毒作業を行っていた。そして、武器を修繕する兵器支廠では明治38年から日本陸軍で使われ始めた三八式歩兵銃。採用後、35年間にわたり、340万丁近く製造された。記者が見つけた三八式歩兵銃のレプリカをみた切明さん。当時は銃を磨いていたが、工場の中では厳しく作業を監視され、当時はそのせいもあり軍国少女だったと語る。
1945年8月6日に原爆が広島に落とされ、14万人が死亡した。軍都広島は終わり、切明さんの心に変化があったという。戦争が終わり、自分はなんてことをしていたんだろうと後悔が残り、人を直接攻撃はしていないものの、その武器を磨いていたり造っていたことにその敵を打たれたように感じたと答えた。その後結婚した切明さんは2人の子どもを育てながらも、心に抱え続けた思いがあった。拠り所になったのは短歌だった。切明さんは今も尚、原爆の後遺症に苦しみ続けている。一昨年には膵臓に腫瘍が見つかったが、手術をしない決断に至った。

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