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「毎日新聞」 のテレビ露出情報

1945年8月14日、日本の降伏により3年8ヶ月に及んだ太平洋戦争が終結。勝者となったアメリカは日本へ占領軍を送り込み、8月30日には1万3000人の兵士が横浜へと上陸する。同じ日の午後2時、占領軍の輸送機が物資を運び込んでいた厚木飛行場に連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーが降り立った。日本兵は天皇の護衛に当たる時と同じ様に、彼に背を向けて出迎えたという。それから3日後の9月2日午前9時4分、ミズーリ号甲板で行われた降伏文書調印式で重光葵以下11人からなる日本代表団は文書に調印。これにより太平洋戦争は正式に終結し、戦後日本はGHQによって統治されることとなった。
降伏文書調印により戦争は終結したが、日本の状況は惨憺たる有様だった。大戦中に100回以上も空襲を受けた東京は市街地の5割を焼損しており、日本人は廃墟の中で暮らしていた。そんな日本にやってきた40万人以上のアメリカ兵たちを人々は「占領軍」とは呼ばず「進駐軍」と呼んで出迎える。こうした中で、GHQは日本の武装解除に着手した。日本の陸海軍は解体され、戦争を指導した東條英機ら政治家たちも逮捕された。
9月15日、GHQは皇居前に建つ第一生命館を接収し、そこに本部を置いた。それから1週間後の9月22日、アメリカ国務省は「権力基盤はマッカーサーが握るが、天皇制は存続させる」という日本占領の基本方針を発表。アメリカは日本の占領統治政策について、天皇制を存続させた上で日本政府を通した間接統治を行う「ソフトピース」案、天皇制を廃し、連合国軍が直接統治を行う「ハードピース」案、さらには米英中ソの4ヶ国によって日本を分割占領する案なども検討していたが、最終的に占領統治が円滑に進むであろう「ソフトピース」案を選択。こうして天皇制の維持が決定された後の9月27日、昭和天皇はマッカーサーと面会を果たす。この会談で昭和天皇はマッカーサーに日本国民の政治的決断や軍事的決断の責任を自らが負うと述べ、彼を大きく感動させた。
10月に入ると、マッカーサーは日本政府に対して五大改革の実施を要請する。婦人参政権の実現により、1946年の衆議院議員総選挙では39人の女性議員が誕生。労働組合の結成も奨励され、戦前に禁止されていた労働組合が続々と復活。教育の自由化も進み、子どもたちは軍国主義的な内容の教科書に墨を塗って新しい制度下での勉強に励んだ。特高警察などの圧政的な制度も撤廃され、収監されていた政治犯や思想犯も釈放された。GHQの民主化は経済界にも及び、戦前日本で権勢を振るった財閥も解体。マッカーサーは日本政府を巧みに操り、様々な改革を猛スピードで実現させていった。
1946年1月1日、昭和天皇は人間宣言を行い自らが現人神であることを否定する。これはマッカーサーの要請によって行われたものと言われており、その背景には天皇の戦争責任を問う声が海外で根強かったことから、天皇が東京裁判で訴追されないための環境を構築する意図があったとみられている。天皇の処刑を回避するために宮内庁もGHQの高官たちを鴨場に招き、非公式な話し合いの場を設けるなど懸命な努力を行った。GHQ内部でもオーテス・ケーリ海軍大尉が高松宮宣仁親王と独自に面会し、「日本人を励ますために国内を巡るのが良い」と自身のアイデアを進言。このアイデアが発端となり、昭和天皇は2月19日から地方巡幸を行う。ケーリのアドバイスに従い、昭和天皇は背広姿で復興の要となる工場や農村を中心に8年半を費やして46都道府県を巡った。この様子は海外でも報じられ、海外における天皇のイメージは大きく変わっていく。そして、6月18日には天皇の訴追は行わないとする方針が決定された。
1946年11月3日、日本国憲法が公布される。この日本国憲法の草案を起草したのは、ハーバードのロースクールを卒業したGHQ民政局員のチャールズ・ケーディスだった。新憲法の起草は元々日本政府に委ねられていたが、その内容は大日本帝国憲法の根本原則をそのまま維持したもので、マッカーサーは「日本政府に民主的な憲法は作れない」と判断。こうしてGHQ民政局が憲法起草を担うことになった。マッカーサーは民政局に対して「天皇は国の最上位にある」「国の主権的権利としての戦争を廃止する」といった原則を提示し、これに従う形でケーディスを中心に20人のスタッフが憲法の草案を作り上げたのである。
マッカーサーの改革は日本人の生活を激変させたが、中でも著しい変化を遂げたのは農村部だった。農地改革によって自分の農地を持つことができるようになった農民たちはマッカーサーを称え、その人気に気を良くしたマッカーサーは自らの政治的野心を拡大させていく。1948年、マッカーサーは共和党右派からアメリカ大統領選挙に立候補。しかし、10年以上も本国を離れていたマッカーサーはアメリカ社会の変化に疎い候補者と見做され、得票数11票という記録的な惨敗を喫した。
1949年10月1日、アジアでは中華人民共和国が成立。これに先駆けて共産主義勢力の拡大に危機感を抱いていたアメリカは、GHQの占領政策を大きく転換させていった。国務省のジョージ・ケナンはマッカーサーに日本の占領政策は反共産主義を柱にするべきと進言したが、マッカーサーは「全体主義の記憶が生々しい日本では共産主義が受け入れられることはない」と提案を拒絶。しかし、ケナンはその後も説得を続け、それに応じる形でマッカーサーは1948年8月に公務員のスト権剥奪を日本政府に命じる。その後もマッカーサーは民主化とは逆行する政策、所謂「逆コース」を推し進めていった。
1950年6月25日、北朝鮮軍の韓国侵攻により朝鮮戦争が勃発。マッカーサーは北朝鮮軍と戦う国連軍の司令官となる。国連軍の中心は日本に駐留していたアメリカ軍で、マッカーサーはアメリカ軍が朝鮮半島に渡った後の防衛を担わせるために警察予備隊の創設を指示。自らが考案した「国の主権的権利としての戦争を廃止する」という原則を無視するように日本の再軍備が進められていった。それからしばらく後の1951年4月、マッカーサーはトルーマン大統領によって全ての役職から解任される。解任の理由は朝鮮戦争での膠着状態を核兵器で打開しようとしたマッカーサーの主張が危険だと判断されたからだった。しかし、日本にその理由を知る者はおらず、帰国するマッカーサーを日本人は惜しみながら送り出した。GHQが占領を終え、日本が独立するのはその翌年、1952年4月28日のことである。
1964年4月5日、マッカーサーは老衰により84歳で亡くなる。その死の13年前、彼は自身の退任に伴い行われた演説で有名な「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という言葉を残した。だが、同じ演説の中に日本統治について触れた一節があることはさほど知られていない。マッカーサーがそこで語ったのは、次のような言葉である。「戦後、日本国民は近代史に記録された中では最も大きな改革を体験してきました。私は占領軍の4個師団を朝鮮戦争に送りましたが、日本に生じる”力の空白”については何の不安もありませんでした。結果はまさに私が確信していた通りでした。日本ほど穏やかで、秩序のある勤勉な国を知りません。また日本ほど将来、人類の進歩に貢献することが期待できる国もないでしょう」。

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