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「泉屋博古館」 のテレビ露出情報

二条城の外に出たタモリら。二条城の堀幅は14m。同じ徳川家康が造った名古屋城の堀幅は65m。戦いの観点からみると、二条城の方は攻める守るといった考慮がなされていない。二条城の近くには御所(天皇の住まい)がある。この堀幅には武士のリーダーの権威を見せながらも天皇に威圧感を与えないように配慮する家康の思惑が表れている。
タモリらは神泉苑を訪れた。神泉苑は794年に桓武天皇の庭園として造営された。徳川家康が二条城を造ろうとした当時、御所の近くにはすでに織田信長や豊臣秀吉が城を築いていた。それらとのバランスを考えたと考えられている。
タモリらは二条城の北側へ。この場所では石垣に違いがみられる。これらの違いは建てられた時期。新しい石垣部分は徳川秀忠・家光が増改築した部分とされる。特別名勝・二の丸庭園もこの増築で整備された庭園。秀忠・家光は天皇を迎えるために増改築していたとされる。秀忠の娘・和子は後水尾天皇と結婚。天皇家と徳川家は親戚関係になった。家光の頃は天皇家と絶妙な距離感を保っていたが、秀忠・家光の頃になると天皇家との距離感が一気に縮まった。二条城を舞台にした行幸は秀忠・家光にとって天皇との関係を深めるチャンスだった。
徳川秀忠・家光の天皇をもてなすミッションは大成功。行幸の2か月後、和子は男児を出産。将来の天皇候補とされたが、2歳になる年に病気で亡くなった。もし、和子が産んだ男児が天皇になっていたら、徳川の世も終わらなかった可能性もあった。
住所: 京都府京都市左京区鹿ヶ谷下宮ノ前24

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年11月4日放送 19:00 - 21:00 フジテレビ
今夜はナゾトレ間取り図から学ぶ歴史不動産Q
二条城の間取り図から学ぶ歴史不動産Q。二の丸御殿の離れとなる6つ目の棟には将軍家の台所があった。現在は建物のみが現存、城内に江戸時代初期の台所が残るのは国宝二の丸御殿だけの特徴ということ。江戸時代の間取り図を見ると台所と二の丸御殿は繋がっていて食事をスムーズに運ぶことができた。1626年後水尾天皇を二条城に招待しタイやカラスミなど超高級食材を全国から調達し盛[…続きを読む]

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